SNSの乗っ取りに遭遇する(浦崎)

●世間でいうSNSの乗っ取りに遭遇した。いつの間にか端末からログインできなくなり、パスワードが変更されているといった事態だ。SNS上で乗っ取られたIDが友人諸氏に迷惑をかけても困るから、運営元の会社に連絡してアカウントを削除してもらった。
●周囲によれば結構なことだから大騒ぎしてもおかしくないことらしいが、それよりも誰からも連絡がこない静けさがなかなか悪くないと思った。もともと週末は手ぶらで散歩や読書を愉しむ生活をしていたから、何やら懐かしい気持ちになった。
●散歩ついでに東海道線で横浜までいき相鉄線で神奈川の実家に久々に帰ってみた。最近ご無沙汰だったなと思って両親の話を聞いてみる。たわいもない話ばかりだが意外に悪くない。年輪を重ねると結構な味わいが出ることもあるものだ。
●SNSに限らずインターネット上にある情報は、世間を不安に陥れたり、存在するのかしないのかわからないような欲望をかきたてるものばかりだ。人間が必要としているこうした断片的な情報は得てして極論で殆ど虚構に近いから、結局のところ情報そのものが必要のないものだった思うことのほうが多い。
●人間関係についても似たり寄ったりだ。根本的に浅い関係が広く網の目状に広がっているばかりで、その癖お互いに深い親近感や同質性を味わうといったことは殆どない。知らない人は所詮知らない人なのに、お互いに知ったかぶりをするからややこしい。数万人と関係がありますといったところで、そういうものを友人と定義するのは間違いだろう・・・。
●東京への帰路、師走の横浜の街をそんなことを考えながらふとそぞろ歩いてみた。歩きスマホする人の群ればかりだが、IT機器が普及すればするほど、劣化していく情報や、希薄化していく人間関係の中で、逆に人は間違いなく思考回路が単純化し、自己中心的な孤独の海に沈んでいくのかもしれないと、ふと考えてしまった次第である。

SNSにうんざりしてしまった阿呆でございます(阿房)

●何だかすっかりSNSとやらにうんざりしております。どうやって使うものなんだろうと、何気なく使っておりましたが、つまるところ皆様お家自慢やら、俺を(私を)見てくれ病に罹患している方々ばかりなので、正直気色悪いです。おまけにそれはいいとか、フォローしたりする人々の様子がまた不気味です。何が嬉しいのかさっぱりわからず、阿房なんぞは正直辟易しております。
●変わったところでは、毛利元就バリにやたらに”ぼやく”方がいます。個人的な趣味として、飲み屋以外でボヤキを聞かされるのだけは勘弁と思っているので、真昼間から何だか不愉快な気分になったりします。経費を削られた企業の皆様はやはり銀座のクラブでカラオケでも歌って貰ったほうがよいのでは、などとおせっかいながらこの阿房は考えてしまいます。
●そんなわけで8月に入ってから、twitterやらfacebookにあまり深くかかわらないようにしております。この暑い盆をとことん満喫すべく、昼は汗をダラダラかきながら街を歩き、夜は健全にもビヤホールに出かけることもなく、谷中で幽霊画なんぞを覗きに行ったりしております。電気やバッテリーをあまり使わないアナログ生活の方がまあ快適ってなところです。
●しかし谷中の墓地を散策しておりましても、SNS族は相変わらず跋扈しております。勇気あるなあと思ってしまうのは、墓地で墓の写真などをスマホで撮る人々が多いってことです。山岡鉄舟やら有名人の墓はまあ平気でございましょうが、よりによって無縁仏の墓の写真などを撮っております。余計なものまで映り込んでしまうんじゃないかと心配して、声をかけたのですが、本人たちは平気ですよ~なんて具合で一向に取り合う感じじゃありません。撮影後速やかにSNSにアップロードしているようなので、そんなものをフォローしたり、いいねなどと言っている人々ももれなく谷中の無縁仏がついていってしまうのではと思っちまいます。まあお盆ですからね。
●しかし夕暮れ時に、そのSNS族の皆様方がスマホの画面を見ながら駅に向かう姿を眺めているうちに、阿房はあることに気が付きました。何だか見慣れない浮遊体の皆様がSNS族殿の見つめるスマホ画面を同じように覗き込んでいるのです。あちらの世界の方々のお姿が子供のころから何となく見えてしまう阿房なのですが、SNS族と同様にスマホを覗き込む姿を見たのは初めてでした。あちらの方々も、現代社会の奇妙な道具に関心を持っているんでしょうが、個人的には人間も浮遊体の皆様も同様に現実社会の存在でないような気がしてきました・・・。何だか実体もないのに、かぐわしい感情論ばかりリアルに行き交っているように見えて、なんだか将来に向けた漠然とした不安を感じてしまう阿房でありました。

再びポンペイの落書きを考える(浦崎)

●世の中の流行り廃りなどということに敏感な人々は多い。しかしこと人間についていうと、古来から全く変わっている形跡がない。ソビエトが崩壊した後は前進などという学者もいなくなったせいだろうか、小難しい論陣もなくただ生々しい人間だけが存在しているといったほうがいいのかもしれない。
●10年に一回程度のペースでイタリアの街ポンペイを訪問している。廃墟を廃墟として眺める人は多いのだろうが、個人的には落書きばかり見ている。訪問する度にラテン語で書かれたその落書きの翻訳文が増えているから、奇妙な旅人の関心はいつも満たされる。
●楽しいのは現代のSNS・インターネットやテレビ、小説・雑誌・マンガの類とたいした内容の変化がないということだ。お金の問題、男女関係の込み入った噂話、政治への不平不満などなどである。中には日本で女性誌の編集者にでもなれるのではという魅力的な落書きもあって、何日いても飽きることがない。
●しかし現代と寸分変わらぬなどという感想には、少々悲しみも禁じえない。ITやインターネットなどが進んだところで、あの落書きが世界中に拡散するだけではないかなどと興ざめしてしまうからだ。実際SNSなどというものが登場したので結構な頻度使ってみたが、ポンペイの落書きと何の違いもない。自慢・宣伝・嫉妬・恋愛・マネーなど無秩序な呟きが無制限に流れている。騒がしいといったほうがいいかもしれない。
●良いとか悪いというものではないだろうが、変わっていないものを進歩していると思い込むのもばかげている。facebookやtwitterなどというのは要するに巨大な落書き帳で、それ以上でもそれ以下でもない。面白いけれども別に新鮮というわけでもない。何だか気負ってインターネット・ITの時代云々と枕詞をつけずに、いやいや単なる落書き帳ですよ、といってもらうほうがわかりやすい。
●然様に歴史を2000年眺めてみると、確かに技術は進歩したかもしれない。しかし当の人間はたいして進化しもいない。従って人間のこころに注目している私にはやはり面白く感じる。歴史という時間を超えて、光輝く文章とそうでないものはポンペイも現代も同様なのである。時間を問わず光彩を放つ落書きには、それが無名のポンペイの青年が書いたものであっても、喝采を送り続けるばかりである。人間の愚かさと素晴らしさの双方の原点がポンペイにあるから、その落書きを読み、改めて人間を知るために、私は今年もイタリアを訪問する予定である。