黒岩重吾先生に学ぶ(阿房)

●阿房は大阪の所謂あいりん地区で何日かすごしたことがあります。若い頃、尊敬する作家、黒岩重吾先生に何かを学びたいとふと思い立って、東京駅から夜行列車にのって大阪まで行ったのです。随分思い切ったことをすると、かなり時間がたってから会社の先輩に言われたんでございますが、当時は(・・・というか今もですが)人生を裏の裏まで眺めてみないとなかなか見えてこないものがあるような気がして・・・、(とはいえ)いろいろ考えるのが面倒くさくなり、突拍子もなく現地へ行ってみる、というはぐれ雲のような生き方をしておりました。体当たりでいろいろやってみて初めてわかるということが、実際阿房の人生には多かったということなのですが・・・。
●格差社会という言葉がまだなかった頃の話です。しかしそんな言葉はなくっても、あいりん地区は当時から立派に格差社会を象徴する場所でした。黒岩先生が作家になる前のこと、体調を壊して入院しているうちに、保有していた株が大暴落ということがおきました。すってんてんになった先生はあいりん地区で生活する道を選びます。選ぶというよりも他にすべがなかったということなんでしょう。兎に角そこで、すべてを失った先生は、いよいよ小説を書き始めるわけです・・・。
●人生何事も計算して、計画的に、とかいう人がいますけど、そんな定規に当ててまっすぐに線が引けるような人生航路なんてどこにもありません。煎じ詰めれば一寸先は闇でもあるますし、ひょっとすると桜の園かもしれません。ちょっとでもリスクをとらなきゃ何も変わりませんし、逆にリスクが大当たりして奈落の底ってなこともありうるわけです。あいりん地区に生きた黒岩先生もきっとそんな境遇でいろいろ考えたんだろうなと、私も三畳しかない部屋に三日も寝転がってあれこれ考えました・・・。
●人が変わるときというのはどんなときでしょう。私自身もそうですが、ただいま現在の境遇がそこそこに生活できる水準だったりすると、つまらなくても、まあ飲み込んで維持しようという下衆な根性に支配されてしまいます。普通の人は従って変化できません。しかし幸か不幸かわかりませんが、否応なく変化を迫られることがあります。今もっているすべてのものを捨てて、体ひとつで寒空に追い立てられてしまうのです。変わろうと思っている前に、世の中のほうが勝手に変わってくれちゃっうのです。
●いやあ困ったな。きっと黒岩先生もそんなことを考えたんだろうと思います。学歴も国籍も、親戚も、何の役に立たない。どうせならひとつ面白い物語を書いて、人生最後の華でも咲かしてやろう。きっとそんなことがきっかけになったのではないでしょうか。本人は大真面目ですが、第三者から見れば悲劇的であるとともに、ある種軽妙な喜劇のようでもあります・・・。人の転機の迎え方というのはまあそんなことなんでしょう。
●社会人になってからの阿房も同様です。気まぐれな世の中の偶然に右往左往してまいりました。あれもやり、これもやり、成功したかと思えば奈落の底。この世は地獄と思った翌日には、天女のような女性と遭遇。思いがけず結婚したものの、今や天女は鬼と化し、阿房は馬小屋につながれた家畜同然の立場となりました・・・。住宅ローンが残っているとはいえ、この際全部投げ出して、あいりん地区から出直そうかと、結構真剣に考え始めたところです・・・。人生イロイロ、でもこんな阿房ですら自分と真剣に対峙してみたいと思っております。ゼロから何かを考えるためには、またあいりん地区からスタートしないといけないなと、深夜に強い覚悟をもった次第。

流浪する生活、流転の人生は人間の原点ではないか(浦崎)

●あれもこれもという生活が続いています。興味本位もあるのでしょうが、折角目の前に現れたのだから、各々真面目に取り組んでみる。そういうことが何か時間の使い方として意味があるように思えてくるのです。
●物理的に大阪へいったり、別件で名古屋で仕事。時にロンドンで観劇。コンサルティングの仕事をする時間があり、趣味か仕事かわからないような原稿を書くこともある。人に聞かれてどれが本業なのか自分でもよくわからないと思うこともあります。否定的に見れば、趣味的であり、ただ流されているというように見えなくもないなと、私自身よく思います。
●”流される”という言葉で、多くの文化人のことを私は歴史の中に見出します。神曲を書いたダンテ。日本なら、放浪の作家・林芙美子、転々と職業を変えて生きた黒岩重吾あたりでしょうか。行き先が見えていて、そこに向かってまっすぐ進むということではなくて、時々の状況に応じて、必死に生きてはいるが、結果として紆余曲折する道を歩む。そういう人々のことです。目指したわけでもない場所に都度たどり着き、そこで考えるということを、ひたすら繰り返した人々です。
●学校などではひたすら目的を定めてそこにまい進する人生を教えます。確かにそういう時間もあるでしょう。しかし、そもそも目的という言葉は本質的に軽いものです。時間とともに雲散霧消する、或いは別のものに変化していくという可能性をあまり意識していない概念です。
●現実社会の実例を考えて見ましょう。例えば、ある男性は組織の思いがけない出来事で仕事を失う。女性では、結婚した夫がある日突然他の女性と蒸発してしまう。各々目的として子供の頃から思い描いてきた何かであったのに、成就せず、二度と帰ってこない。現実というものはそういうものです。七転八倒したり、ただただ部屋で独り嘆き悲しむ時間があります。時に酒やギャンブルにおぼれることもあるでしょう。ただ二度と同じものは帰って来ない。そういう時に”目的”という言葉はあまりにも無力なのです。
●だから、私は目的という言葉よりも、”宿命”という言葉の方を好んでいます。ただただ流されているのかもしれないが、どうにもならない現実からゆっくりと歩き出している。歩きながら、自分と、そして周りにある風景と、時に会話し、何かに気付くのです。以前なら気付かなかった、理解さえしなかった何かに気付き、それに心を動かされる。よしそれをやろう。そういった具合です。
●目的という言葉ほど美しい響きではなく、自分の存在の底流に流れている、何かに気付き、ひたすら実行していくというものです。それは既成の言葉でいうなら”宿命”というものに近いでしょう。大いに恐怖感はあるけれど、川の流れにある意味で身を任せる。任せながらも自分の足で歩く。流されているだけのように見えて、そこにはおのずから自分らしい歩き方、自分が望む歩き方というものが出てくるのです。
●私自身の”何でも屋”状態というのも、まあそういうことに近いと思います。何でもといいながら、自分の好む”何でも”なのです。少なくとも他人の人生の足跡をそのまま踏襲するような進め方ではありません。奇異といわれようがどうしようが、逃げられない自分らしさというものがあるわけです。だから人の模範になったり、立派なハウツー本になったり必要はない。人に聞かれたら、”ただ単に流されてさまよってるだけですよ”、としかいいようがありません。
●時に私はそういう”流され方”を真面目に考えてみることがあります。小さな自分らしさと、どうしようもなく大きい偶発的な力、その二つが私を誘っているとすれば、それはやはり”宿命的”なものなのだろう、ということです。世の中今が最悪とばかりに新聞は多くの悲劇を取り上げますが、人の人生というものを考えれば、それは他人だけにおきるのではなく、必ず自分にも起こるものです。そこで人は何かを感じ、自分の底流に流れる何かを知るものなのです。多くの変化が社会に生じて、人の痛みがあらゆる場所で見え隠れする現代、流転・流浪するという中で、本質的な自分に気付くという価値観を、改めて認識するべきではないか。私はそんなことを考えています。