アンブローズ・ビアスと芥川龍之介(浦崎)

●アンブローズ・ビアスの短編を読んでいる。読めば読むほど感じるのは芥川龍之介のことだ。年代的に近いビアスの作品を読んだ芥川が、少なからず影響を受けたのは間違いない。ビアスの作品を読む前に芥川の短編に親しんできた日本人ならば、ビアス作品を読むと同様の感想を持つだろう。作品の構成、リアリズムに徹した引き締まったプロットなど、いずれも瓜二つに見える。
●影響を受けると、文体や構造が似てくるのは古今東西やむをえないことだろう。構造的にビアスに同質の匂いを持ってしまった芥川は、自身のテーマを日本の古典に求めても、やはりビアスの影から脱しきれていないように思える。同質性を超えて、オリジナリティを色濃くしていく前の段階で芥川は自殺の道を選んでしまったから、尚更だ。短編の名手だったが、長編を手がけなかったビアスと同様、芥川も短編作家の枠を超えられないまま、最後を迎えてしまったのだ。
●ビアスの作品には、当たり前だが、芥川が模倣し切れなかった、深みを感じさせる部分が豊富にある。特に南北戦争に従軍したり、新聞記者としてすごした時間の積み重ねが、古典という器に縛られた芥川をはるかに超えるエネルギーの源泉になっていると感じる。著名なところからいえば、”アウル・クリーク橋での出来事”(原題:An Occurrence at Owl Creek Bridge)があるだろう。死を前にした瞬間、妄想のように湧き上がる人間の夢や映像的な過去の記憶というものを、きわめて実感的に描ききっている。フィクションであるかノンフィクションであるかという、読者側の猜疑心を打ち消してしまうような吸引力があるのだ。
●決して芥川の才能を下に見るということではないが、どちらかというと源流的な位置づけにあるビアスの作品がもっと日本でも読まれてよいのではないかと考えている。とかく学校の教科書では、日本人作家の作品ばかりが掲載されてしまう傾向にあるから、やむをえないのかもしれないが、短編小説の名手、ビアスの作品に高校生時代にでも接していたら、熱しやすい私はきっとアメリカへ渡って、二度と日本の土を踏まなかったことだろう。

モーパッサンの自殺衝動と人生の終わり(イレナ)

●日本では自殺に関するニュースが後をたちません。交通事故による死亡者よりも多い年間3万という自殺者の数はそれだけ社会全体に対する脅威なのだと思います。ただこと死ということについて、統計的な観点からかしましく意見するのは、私の好みではありません。極めてパーソナルな問題であるからです。
●フランスの作家モーパッサンの作品で”ある自殺者の告白(Suicides)”という短編小説があります。世間的にはかなり裕福な男性がなぜ自分は自殺に至るのかということを、告白形式で書いている作品です。
●読んでいるうちにふと感じるのは、この告白が現実に自殺未遂に至るモーパッサン自身のものであると確信することです。人間の人生というものが、前のめりに向かっているように見せて、実は死という人生のゼロ点に向かって確実に突き進むものであるという不可逆性をもっているということ。またそのことに対してモーパッサン自身がどうしようもない不安を感じていたことが、この告白文の中から読み解けます。
●死を考えると恐怖するという心の動きは万人に共通のものでしょう。多くの人は考えることを拒否するか、まだまだ先のことだと安穏としているかのいずれかにあるでしょう。今回取り上げたモーパッサンや、日本の芥川龍之介のような作家は、その恐怖自体を適当に曖昧に捨て置くことが生理的にできなかったのだろうと私は思います。死がゼロ点である限り、人生のロケットは確実にブラックホールに吸引される構造にあるわけです。したがって繊細な賢人の不安は歳月を重ねれば兼ねるほど増大していくのです。
●ただ少なくとも仏教圏に生きる人々には別の思想があります。特にチベット仏教を信仰する人々にとって、死は所詮物理的な存在である肉体の終わりであって、魂の旅の経過地点にすぎないのです。私はアジアにきてそのことを学びました。欧米的な、所詮人生は一度であるから好き勝手にやり過ごすべきだという雰囲気に、モーパッサンと同様の空しさを感じていた私には、ある種の救いがあったわけです。死をそれほど課題に評価する必要は今もってないと私は考えています。
●しかし他方で、自殺そのものを否定できるかという問いに私は悩まされています。ほぼすべての宗教家が否定しているこの手段をどのようにみておくべきかということです。病気やどうしようもない痛みを回避するために、安楽死が認められていながら、自殺が禁止されているということには、大いに矛盾があると思うのです。奨励すべきものでないのは明らかですが、逆に簡単にそれはいけないと言うほどの自信が私にはありません。自殺報道があればあるほど、死のことを考え、また自殺をせざるを得なかった人々の置かれた状況ということを、深く考えてしまうのは私だけではないでしょう。