死は絶対ではなくただの通過点ではないか(巌野)

●現代は自殺を悪だとしている。決して間違いではない。しかし反面その矛盾に社会はもだえている。戦国時代から江戸時代に掛けて切腹という儀式が存在した。歴史的な儀式であるから現代の常識だけで裁くものではないと考えてきた。昨今そこそこの年齢になってみても、やはり自殺を一面的に悪だと決め付けることにはなにやら違和感がある。
●近代になって日本では、明治天皇の崩御に伴う殉死の問題や、森鴎外が高瀬舟で描いた安楽死の問題がと取り上げられてきた。いずれもよいとか悪いとか言う基準で判断はできないものだと、個人的に感じた問題だった。まじめに考えてみると、社会全体で死ということを絶対視しすぎているのではないかと感じることが多くなった。ある種のやむにやまれぬ事情というものが社会に存在する以上、存命し続ける苦痛や悔悟を絶つ手段を悪だと決め付けるのは行き過ぎた議論ではないだろうか。
●特に古代のチベットやエジプトの死者の書などを読んでいると、死後の人間がすごす時間のことについて多くの記述があるから、むしろ死自体がひとつの出発であると考えるようになった。各国の宗教などはこの死後の旅の途中で閻魔大王を登場させてみたり、天国と地獄をつくり上げたりと、生きていた時間の総括が行われると定義しようとしているが、こうした定義はキリスト教ならローマ帝国の国教となって以後、仏教なら仏像を作ったりして宗教団体の色がつき始めて以後のことだろうと思う。善悪の基準を持つようになったのは、個々人をマクロに統制しようとする世俗権力の利益にかなっていたからだ。故に本来あの世と呼ばれる旅が存在するならば、淡々と続く一本の道になっているはずだと、私は思うようになった。要するに死は絶対ではなく、ある種の通過点に過ぎない、また死を恐れる必要もないし、生と死に無関係にただ自分の志を貫けばよいではないか、まあそんなことを考えるようになった。
●従って死そのものは所詮けじめのつけ方ではないかと思うようになった。だから病死がよくて、自殺が悪いという言い方は論理的に妙である。病気の痛みを知らない人間が無理に延命をすすめるのも失礼であるし、自ら苦痛から解放されようとすることをとがめることは不躾である。
●私は数多くの自殺事案に遭遇してきた。いずれも非常に悲しみに満ちていた。しかし本当に故人の事情を深く知る私の中には、その人たちが新たな旅に出る準備をしたのだと考えたい。そこに妙な価値観を持ち出してほしくないし、ましてや宗教団体の一部のように自殺者は墓に埋葬しないなどという愚行もしてほしくない。彼らはわれわれ生きている人間たちよりも、少々早く、自分の意思で旅立っただけなのだ・・・。多くの社会的な倫理観に反するかもしれないが、多くの愛すべき人々の死を私はいつも尊重したいと考えている。

自殺者は永遠に罪人ではない(ゲオルク)

●少年の頃教会の神父に自殺は本当に悪なのですかと質問をしたことがあります。一番仲のよかった友達の父親が学校で起きた不祥事を気に病んで、自殺をしたということがあったからです。そのとき神父様がいった言葉は今一生懸命思い出そうとしてもまったく思い出せません。その答えがあまりにキリスト教会らしかったからでしょう。
●時代が変わって日本にやってきた時のことです。自殺が出来ないからといって、家臣に自分自身の殺害を指示した細川ガラシャについて、同じような言い方で日本の歴史書が取り上げ、列聖扱いもどきにしていることにも、何か大きな違和感を感じました。他者を介しているだけで大きく見れば自殺に過ぎないではないかと。これはイエス・キリストにも言えることで、近年発見されたユダの福音書などを読むと、キリスト自身も同様に間接的な自殺を図ったのではないかという理解が成り立つと思います。
●少し話題を変えましょう。欧米にはアジアとは異なりバチカンという組織が2000年近く存在しています。英国王室の離婚劇を容赦できないとして破門してしまう組織です。ここ数年の間で、500年に及ぶ破門を解き、歴史的和解をしたということが、欧州では結構な話題でした。たかだか離婚で500年間も係争する組織の論理というものはまことにばかげたものです。
●要するに自殺、離婚を含め、教義を逸脱したものはすべて正しくないということです。昨今テロを指弾してイスラム教原理主義についてとやかくいう人々が多いのですが、キリスト強国自体いまだにどこが違うのかと思います。十字軍を演出して異教徒を征伐するのはただしい、またその戦いの渦中で殉教するのは自殺ではないなどという奇妙な論理を振り回すのも、理解しがたい矛盾です。
●話を元にもどしましょう。最近日本人作家の五木寛之さんのエッセーを続けて読みました。そのなかに自殺も悪くないなと思うことがあると、素直な気持ちを吐露しているくだりがあります。現代世界のなかでこういう文章を書くのはなかなか勇気がいることで、私は自分の少年時代に思ったひとつの疑問を改めて思い出したのです。
●友達の父親はオーストリアの地方都市の学校に勤務していました。そこで生じた不祥事は、お金の使い込みに関するものでした。容疑者として学校や警察から取調べを受けた繊細なその父親は、十二月の寒空の中一人庭の木の枝にロープをかけて死にました。冷たくなった死体を見つけたのは友達の少年でした。
●自殺した死体を教会で埋葬してもらうのは現代でも非常に難しいことです。キリスト教の本義に反しているからです。私はその父親の死体がどこに埋葬されたのか今もって知りません。程なくウィーンに転校していった先で処理されたのか、或いは母方の実家があるドイツへ旅立ったのか、私には知る由もありませんでした。
●以来数十年のときを経た先々週の出来事です。私は感謝祭のタイミングで帰国の途につくべく、モスクワでベルリン行きの飛行機に乗り込もうとしていました。チェックインカウンターの前でエコノミークラスのアナウンスがながれるのをまっていると、ファーストクラスのチェックインに並んだ数少ない人の中に、大人になった友達の顔を見つけたのです。私はつきなみな会話の後、どうしても知りたかった父親のその後を聞きました。離陸してポーランド上空を飛んでいるときです。しばらく沈黙していた友達はゆっくり語り始めました。冤罪だったことをつい最近明らかにしたこと。父親の埋葬地は遠くフランクフルト近郊であること。そしていまさら教会に埋葬しなおすつもりはないということ、でした。
●ベルリンに到着してから私は彼に改めて質問してみました。タクシーに乗っているときです。自殺は悪だと思うかという私の質問に対して、”よくないと思うが他殺と同様によくないというに過ぎないよ”と答えました。しかし”だからといって自殺者が永遠に罪人であるはずもなく、他殺者も同様だと思う”。私は友人の数十年の苦しみぬいた時間と空間を頭に思い浮かべました・・・。その立派な体躯とばりっとしたスーツ姿の中に、私は少年時代の彼と寸分変わらない何かを見ました。

自殺:ベレゾフスキーの終わり(永野)

●初期オリガルヒの代表格だったボリス・ベレゾフスキーがロンドンで死んだ。息子のEgor Schuppeによれば自殺だったという。世界中のスパイ小説好きはプーチンの指示に基づいてFSBが仕掛けた作戦だったのではないかと、誰もが思ったが、どうもそうではないらしい。
●プーチン王朝とでもいうべき時代になって、ロシアから亡命をしたベレゾフスキーの晩年は非常にみじめなものであったらしい。かつて中古車販売で成功をおさめ、メディア企業を次々に買収し、エリツイン政権の黒幕とまで言われた男だが、ロシア革命後のロマノフ王朝と同様、多大な資金も大方底をつき、生きる希望を失ったのかおしれない。77歳の死は確かに、ロシア人男性の平均寿命をはるかにしのぐものだが、死にざまは決して幸福だったとはいえないだろう。
●人生の終わりとはどのようにありたいかということを最近常々考える。大金を得たからといって離婚訴訟や株主訴訟に追われるベレゾフスキーのような人生であるのなら、決して私は幸福ではない。また愛する祖国から遠く離れた異国の地で、顔も言語も宗教すらも異なる看護師や神父に看取られるというのも寂しさこの上ない。末永く連れ添った家族と、裕福ではないにしても不幸と幸福を分かち、できれば祖国の人々の口の端にあがる詩歌の一片でも残るなら、それは素晴らしいことではないか・・・。
●かつて亡命先のイタリアから、スターリン時代のソビエトに戻ったゴーリキーは、多くの知人から祖国へ戻ることを諌められたが聞かず、モスクワで最晩年を過ごす。彼の心情たるやいかなるものだったのかと、時に考えてみる。やはり祖国の地で静かに死にたい。そんなことだったのではないかと思う。死が人生の終わりであり、最後の総括であるというのなら、やはり祖国の土に還りたいと思うのが自然ではないだろうか。ベレゾフスキーの死を知り、ふとマキシム・ゴーリキーの晩年のことを考えた夜であった。

モーパッサンの自殺衝動と人生の終わり(イレナ)

●日本では自殺に関するニュースが後をたちません。交通事故による死亡者よりも多い年間3万という自殺者の数はそれだけ社会全体に対する脅威なのだと思います。ただこと死ということについて、統計的な観点からかしましく意見するのは、私の好みではありません。極めてパーソナルな問題であるからです。
●フランスの作家モーパッサンの作品で”ある自殺者の告白(Suicides)”という短編小説があります。世間的にはかなり裕福な男性がなぜ自分は自殺に至るのかということを、告白形式で書いている作品です。
●読んでいるうちにふと感じるのは、この告白が現実に自殺未遂に至るモーパッサン自身のものであると確信することです。人間の人生というものが、前のめりに向かっているように見せて、実は死という人生のゼロ点に向かって確実に突き進むものであるという不可逆性をもっているということ。またそのことに対してモーパッサン自身がどうしようもない不安を感じていたことが、この告白文の中から読み解けます。
●死を考えると恐怖するという心の動きは万人に共通のものでしょう。多くの人は考えることを拒否するか、まだまだ先のことだと安穏としているかのいずれかにあるでしょう。今回取り上げたモーパッサンや、日本の芥川龍之介のような作家は、その恐怖自体を適当に曖昧に捨て置くことが生理的にできなかったのだろうと私は思います。死がゼロ点である限り、人生のロケットは確実にブラックホールに吸引される構造にあるわけです。したがって繊細な賢人の不安は歳月を重ねれば兼ねるほど増大していくのです。
●ただ少なくとも仏教圏に生きる人々には別の思想があります。特にチベット仏教を信仰する人々にとって、死は所詮物理的な存在である肉体の終わりであって、魂の旅の経過地点にすぎないのです。私はアジアにきてそのことを学びました。欧米的な、所詮人生は一度であるから好き勝手にやり過ごすべきだという雰囲気に、モーパッサンと同様の空しさを感じていた私には、ある種の救いがあったわけです。死をそれほど課題に評価する必要は今もってないと私は考えています。
●しかし他方で、自殺そのものを否定できるかという問いに私は悩まされています。ほぼすべての宗教家が否定しているこの手段をどのようにみておくべきかということです。病気やどうしようもない痛みを回避するために、安楽死が認められていながら、自殺が禁止されているということには、大いに矛盾があると思うのです。奨励すべきものでないのは明らかですが、逆に簡単にそれはいけないと言うほどの自信が私にはありません。自殺報道があればあるほど、死のことを考え、また自殺をせざるを得なかった人々の置かれた状況ということを、深く考えてしまうのは私だけではないでしょう。