幕末180度の意識改革~攘夷から開国へ(木羅)

幕末の歴史の中で尊王攘夷という運動が盛り上がっていたのは、現在の日本の状況からすれば真に不思議な光景である。現在の日本という国は世界貿易の恩恵をこうむらずして生きていくことは極めて難しい。外国との交流や経済関係の構築などを排除する理由は何一つないといっていい。そこから幕末という時代を眺めると、何故国論を語る多くの志士が外国との交渉を忌み嫌ったのだろうかとふと考えてしまうことがあるのだ。
●反面、攘夷運動の主軸を形成していた長州藩などが一転開国に転じるということもまた不思議なことである。薩英戦争下関戦争で敗北し、国力の違いを認識したことが出発点となるのだが、各々1863年と1864年の出来事である。明治維新のわずか数年前であるから、その短い時間で認識を改めたということになる。節操がないといえば節操がないが、列強の世界にあって何とか生き残る道を模索しなければならないという高い志を優先したともいえる。
吉村昭氏の著作「生麦事件」の中には、生麦事件以後のこの2つの戦争について極めて詳細な記述が行われていておもしろい。ある意味でファナティックな攘夷派の志士たちが列強との実戦を通じて開国派に変っていく経緯がまことに丁寧に描かれている。何度も議論を尽くした結果以上に、究極の具体性とでもいうべき強烈な実体験が志士たちに再考を求めたといっていい。
●歴史的な転換点にはこうしたエポック・メイキングな出来事が常に起こるものであるのかもしれない。国論を二分するような議論を巻き起こす事件が発生し、善処すべき方向性を模索することは、過去の歴史の中だけでなく今後の日本でも枚挙にいとまなく訪れるだろう。場合によって過去の信念を曲げてでも、新しい潮流の中で自分たちの姿を考え直さなければならないときもあるはずだ。その時、日本という国が高い志に基づいた判断能力を再び発揮することができるのだろうかとふと考えてしまうのは、わたくしだけだろうか。

1862年初秋のテロリズム~生麦事件を考える(浦崎)

●テロが一向に収束する気配がないが、原因の一つに善悪を巡る認識の違いというものがある。被害者の側から見ればテロだが、加害者からすれば憎い敵国へのジハード(聖戦)である。各々の文化的背景によって全く異なる解釈を生み出すことが得てして世界にはある。
●1862年の生麦事件も或る意味でそれに類した事件であるかもしれない。島津久光の大名行列を乗馬のまま横切った横浜在住のイギリス人4人が薩摩藩士に殺傷された事件である。当時の慣習からすれば、大名行列というものに対しては平身低頭で見過ごすのが日本国内の常識であり、礼を失する行いに対しては武士の斬捨御免は慣習法として認められた行為であった。反面、英国側からすれば突然髷を結った複数の武士に斬りかかられた訳で、一種のテロと見られたのは疑いない。特に4人のうちの一人、英国商人チャールズ・リチャードソンがこの事件で死亡したことにより、双方の論理は激しく激突し、薩英戦争の直接的な原因となる。
●明治維新のわずか6年前の出来事である。歴史的には、薩長など国内雄藩が攘夷運動の無力を知るという大きな転換点を生み出すきっかけを作った事件でもある。日本という国が以後、逆に急速に洋化政策を推し進めていく姿には、何やら節操がないようにも思うが、極めて高い柔軟性を持っていたともいえる。
●今年は湾岸戦争で米軍がサウジに駐留してから15年目である。ビン・ラディンがアルカイダを設立する契機になった事件でもある。世界の多くのテロが、彼が唱えるジハードに呼応している状況は一向に変化の兆しがない。多分に宗教の教義との関係があるように見えるから、事が複雑化しているのはやむをえないにしても、一旦宗教の面から異端視されれば、イスラム世界でも単なるテロという理解をされる運命にあるものとも思う。
●多くの人の死を犠牲にしてきた以上、歴史は少しでも良い方向に進んでいって欲しいというのが、世界に普遍的にある庶民の願いである。生麦事件におけるリチャードソンの死が日本という国の発展の礎となったのと同様、テロの犠牲となった多くの市民の死がイスラム社会や世界の相互理解に少しでも貢献して欲しいと思う。これはロンドンにもイスラム世界にも友人を持つわたくしの願いでもある。