シェレメチェボ空港で松本清張(「西郷札」)を読む(浦崎)

●年末は再びモスクワとシベリアで過ごした。モスクワは兎も角シベリアではマイナス40度にもなった。昨年は20度までだったから今年はその倍である。30度を超えると自動車のエンジンはほぼ駆動不能となり、自分の足で歩くのみである。靴や帽子、手袋など寒冷地仕様の特別装備でも命の危険を感じるほどである。針葉樹の林の中を独り歩いたりすると、満州からの抑留者たちの感情が多少わかるような気にもなる。冬のさなかにシベリアを訪問するのも奇特なことだが、真摯に何かを考える時間を与えてくれる大陸の奥深さと厳しさがこの地域にはある。
●前後するがモスクワでの長いトランジットで今年も何冊か本を読んだ。防寒具で一杯のトランクの中に本を入れるのは大変なことだが、若干活字中毒の気があるからなしというわけにもゆかない。文庫のようなものでも数冊そっと入れておき、シェレメチェボ空港のソファーでゆっくりと読むということになる。年末の混み合った飛行場の喧騒も気にならないわけではないが、面白い書物なら十分没頭できる。数時間もあれば一冊は十分にいける。因みにそれ以上の余裕時間があるなら近くのNovotelの部屋で寛ぎながら過ごすこともできる。150ドルほどの値段になるが、三十代後半のわたくしなどの世代には悪くない選択肢である。
●今回のセレクションは松本清張の初期作品である。1950年朝日新聞社在職中に筆を執った「西郷札」という短編で、週刊朝日の百万人の小説に入選した作品である。まだ随所に玄人になりきれていない同氏の筆遣いが感じられて、既に著名になっていた姿しか知らないわたくしなどには非常に新鮮な印象があった。西南戦争中に薩摩方で発行された紙幣である通称西郷札が一定の比率で通常紙幣と交換されるのではという思惑をもとに、買占めと独占的利益を得ようとする人々の人間模様を描いたものである。歴史の中で時に埋没しそうになるトピックスに着眼し物語を編むこの作家の潜在的な力量を感じさせられる作品である。
●20代・30代の時間を、慌しく刹那的に、また時に懐疑的に過ごしてきたわたくしは、40代の早い時期にこの作品を書いた松本清張に精神的にかなり近い状態にあるように思う。売名的野心というものが突出するというわけでなく、或る知的好奇心の対象を丹念に調べ磨き上げることに実は関心がある。題材は歴史から文化、時に科学などの領域が入るときもある。満足させる相手は何よりも自分自身であり、顔の見えない第三者ではない。趣味人的思考なのかもしれない。が、満足感はある。あくまで読後感にすぎないものだが、松本清張にもそんな生活観があったのではないかとふと考えたのである。
●新しい年は公私にわたり新しい舵をきることが多くなりそうな気配である。長くて時に沈痛な懐疑の時間に留まらず、本質的な意味で自分自身のために確実に成果をあげて行く機会を増やしていくことになるだろうと思う。年末から新年にかけて松本清張の本を読んだのは単なる偶然だが、今年から取り組もうとするいろいろなテーマを実現していく上では、何か宿命的で必然的な示唆材料だったようにも思う。モスクワでの5時間に及ぶトランジットの時間に、わたくしはそんなことを考えて過ごした次第である。

商社について考える(木羅)

●現在のわたくしのクライアントは総合商社である。クライアントは勿論初めてだが、業界についてはかつていろいろ考えてみたことがある。
●わたくしが就職活動をしていた時代、学生の就職ランキングでは総合商社の人気が極めて高かった。わたくしは或る意味世間のことに関心が高い人間でもあるので、何度か財閥系の会社などに足を運び内定もいくつかもらった。バブルな時代でもあったので、特別会社のことを調べたりもせず、何をしたいのか考えてもいなかった。
●面談などでは何をしたいかと盛んに質問をうけたので、特別業界に思い入れがあったわけでもないわたくしはいつもこのドラマの話をした。松本清張原作、和田勉演出のドラマ「ザ・商社」である。旧安宅産業を扱った物語で、伊藤忠商事に合併されるまでの話である。「このドラマをみて、ビジネスの世界で物語を作ってみたいと思います。」などと平然と答弁した記憶がある。
●今にして思えばその会社がどうとかそういう感情は皆無で、このドラマがとても面白かったということだけを話していたのだろうと思う。商社そのものというよりも、和田勉や松本清張になりたいなどと人事担当に答えていたに過ぎない。が、それだけの錯誤を与えてくれるだけの物語としての力がこのドラマにはあったということでもある。
●立場は代わり、わたくしにとって商社は大切なクライアントになった。今、再びこのドラマを見てみようと思ったのは、逆に商社の価値の源泉とは何かについてヒントを得たいがため、という生臭い理由からである。が、生臭い理由を忘れさせるほどに、やはりこのドラマは良くできている。久しぶりに観賞しそんなことを思った。