江戸時代の女性はどうやって成仏したのか(イレナ)

●貝原益軒の女大学の英訳をたまたま友人からもらいました。読んでみると、現代でもたまに目にする女性に対する偏見の原形のようなものがあって、興味深く感じました。しかし、貝原益軒といえば、平等思想の持主と思っていたのですが、この本からすると、女性に対しては完全な蔑視思想の持主で、深くため息をついてしまいました。
●そういえば先日高野山の関係者と話をする機会がありました。何も知らない外国人からすると、女人禁制というのは違和感がありますというと、伝統ですからというような柔らかい答えが返ってきます。ちょっと割り切れない気持ちになったので、中立的な宗教学者の知人に詳しく聞いてみると、仏教は日本にやってきてから、儒教的なものと共生をはかる狙いもあって、女性を穢れとし、所謂”悟り”や”成仏”も得られないもの、と位置付けてしまった経緯があるのではないかとのお話でした・・・。原点となるインドのゴータマ・シッダールタの言葉には存在しない概念が、勝手に混入している日本の仏教というものが、何とも疎ましく思える瞬間でした。
●この点明治になって福沢諭吉の書いた新女大学は、益軒の書いた女大学に対するアンチテーゼとして書かれた分、内容的には比較的違和感がないのですが、私が関心を持った宗教上の位置づけに関する記述はありません。いわゆる女性の救いやこころの問題は、明治以後も捨て置かれたような気がして、何とも落ち着かない気持ちになってしまいます。
●ただキリスト教やイスラム教が進んでいるかというと、そういうわけでもありません。キリスト教では、さすがに女性が天国にいけないとはいいませんが、バチカンの教皇に女性が選ばれることはありません(正確にいうと、伝説の中で男装の女性教皇がいたというものはありますが例外とします)。そういう意味では、日本の仏教がどうかという問題よりも、2000年近い歴史をもつ宗教関係者の、頑迷な保守性が問題なのかもしれません。
●日本ではようやく女性活躍社会の実現というテーマが政策課題にあがるようになっているようです。しかし個人的には、女性のこころの問題を取り扱う、宗教関係者の保守的な壁のようなものを、早く撤廃してもらいたいものだと考えております。 いろいろな国を飛び回っているにせよ、ふと日本で寿命が尽きたなら、一体どのお墓にはいるべきなのか、今の私にはわかりません。

幸福と不幸、その絶対感覚の相違を考える(浦崎)

●数年前に結婚した知人と一ヶ月ほど前に食事をしていたところ、彼女の口から離婚したという報告を受けました。同じく数年前結婚式の案内状を受け取った時、彼女は大好きな彼との結婚を夢見る幸福絶頂の中にありました。皮肉に聞こえてはいけないので彼女にはいいませんでしたが、あのときの幸福感と現在はどのように違い、何をもって証明できるのだろうかとふと考え込んでしまいました。
●時にデジタル思考の私からすると、幸福感は所詮喪失したあとに感じるものではないかと考えてしまいます。株式相場の最高値に例えれば簡単です。株価が最高値を更新し続けていく中であったとして、いつが下りの始まりかということを、ギャンブル好きの男性陣は考えます。一年のうちでどこかが最高値なのかということです。専門用語で移動平均線との乖離率やらRSIといった相対指数で説明しようとしている向きもありますが、所詮統計上の妥当性の話です。多くの人は結局のところ、最高値を更新できず、毎度安値を更新し続けるなかで、あああそこが最高値だったのかと思うというにすぎません。、要するに下り坂になって初めて最高を知る、ということなのです。
●不幸という感覚も同様でしょう。絶対不幸という水準があるわけでもなく、生まれてこの方スラム街にすみ続けた少年が、ある日一枚のチョコレートを口にした瞬間、類まれな幸福感を味わうはずです。どんどん上昇していく水準が続くと、人はあああそこが最悪期だったのかと思うのでしょうが、最悪期というものも豊かさを獲得していった人間だからこそ知覚できるものです。人間はわかりにくく、わがままな存在であるというわけです。
●だから正確に言って、長寿社会になったからといって社会全体が幸福になっているわけではないというわけです。すでに最低限の生きる権利が保障されえいる現代では、すべてが下り坂に見えてしまうのです。比較する対象をいっそのこと、江戸時代や戦国時代にでも変えてみたら何と幸せな社会なのかということになるはずなのですが・・・。
●かくいう意味で、私は昨今絶対感覚のようなものに関心をもつようになりました。最低限何が満たされていれば自分が幸福感を感じられるのかということです。世の中一般的にとか、他人がどうかとかいうことは、この際一切関係ありません。明日死んで何も悔いがなく、ただいまの一瞬が満ち足りている、そういう感覚です。このことについては数多くの国で、或いは宗教家たちが研究してきたことなのでしょうが、先人たちの知恵に接する以上に、自分自身に問いかけております。喪失して不幸と思わず、獲得すればすべてが幸福に満ちている。それ以上でもなくそれ以下でもない。そこがどこにあるのかということが自覚できれば、不幸など存在しないのです。
●話を元にもどしましょう。件の女性ですが、先週再び会う機会がありました。横にはイケメンの若々しい男性が陪席していたので、人違いかと思って通り過ぎてしまうところでした。不幸のどん底にあると聞いてすっかり同情していた私からすると、知人のスピードは想像を超えるものでした。あれこれ考えるより先にどんどんシュートを放つその姿勢は、サッカーに例えれば完全に欧州式でありました。だめだったら次、その次と打たれづよく蹴り込むというわけです。”どこまでいけるかわかんないけど、いけるとこまでいくわよ”という彼女の言葉も、またなんともいえず心強く、理屈を捏ね回してしまう私などよりも、はるかに面白い人生なのだろうなあと思います。とはいえ、下り坂に入ってしまったときのどうしようもないたるせなさの渦中で、私のつまらない屁理屈も多少は慰めになるようで、男女の違いがあるにも関わらず、この女性とは二十年近く友人であります。世に言う人間の煩悩を日々続けて、今なおコミカルにせっせと生きるその姿も、何だか人間らしくてよいもののように、私には思えます。