幸徳秋水とソクラテスの弁明(浦崎)

●大逆事件の後、捕縛されて死刑を待つ身の幸徳秋水が、最後に遺した死生という随筆がある。歴史の専門家の最近の研究によれば、そもそも大逆事件において幸徳秋水にかけられた疑いは完全な冤罪であったということだから、事実に反する旨を延々と述べてもよいのだが、記述されているのは死そのものに対する幸徳の洞察のみである。
●文章の中に見えるのは、40歳になろうとしている矢先に罪人として処刑されることに対する苦痛である。結果として死を迎えることについては、言葉の上では懸命にたいしたことではないと述べているが、本心においてやはり合理的精神を超えた部分で恐怖していた形跡がある。古今東西の著名な人物の死と対比することで、眼に見えない非合理な恐怖心を鎮撫しようとしているように見えるのだ。
●ただこの幸徳の死生観は現代でいきている私にはある部分で共鳴するところがある。単なる自己愛としての長生などに大きな意味を見出すよりは、本願成就そのものにこだわるべきだと、自身も思うからだ。結果としての長生はあるにしても、目的・目標としての長生はそもそも本質が不明である。歴史上ヒトが短命に終わるという時間が長く続いたことに対する反作用として、無条件に長生をよしとする風土が生まれただけのことだろうと思うのだ。
●幸徳が文章の中で取り上げている著名人の中にソクラテスの名前がある。同様に裁判に掛けられて刑死という不幸な運命に終わる哲学者である。この人物の裁判における2000年以上前の主張は、弟子たちが残した文書のおかげで”ソクラテスの弁明”(Apology of Socrates)として現代の人々も裁判の内容を吟味できる。幸徳秋水の大逆事件については、たかだか百年前の出来事であるのに、いまだに再審も行われず、事実は今もって闇の中である。幸徳の文章を読めば読むほどに感じる無念さを思うと、戦前であるかどうかを問わず、また本人が既に死んでいるかどうかを問わず、改めて再審をしてもよいのではないかと、強く感じる。罪が罪でないということの証明もあるが、幸徳の本願自身を、ソクラテスの言葉を聴くように、現代において再評価するべきだと思うのだ。

堺利彦は果たして左翼思想家なのか(巌野)

●首相の靖国神社参拝の件で東シナ海が騒がしい。私は政治の問題には関心はない。しかし世間はこのことをきっかけに議論が白熱している。聞こえてくるのは、歴史観が自虐的過ぎるという理由で改めて歴史を見直そうという議論と、他国の言う、A級戦犯を奉るのは間違いだというような議論だ。どちらも芸能記事のような扇情的な表現を使うし、そもそも相手に唾が飛ぶような体でまくし立ててくるから、正直辟易している。
●似たような議論がある。右翼とか左翼とかいう言い方だ。元来フランスで使われた言葉だが、現在の世界や日本の現状の中で今更そのような区分を持ち出して、一体何をしたいのか、私にはわからない。所得分配を含めた経済運営の仕組みとして、社会主義がおよそ否定されてしまった現代、むきになって左右の区分を明確にしたがる人々の本心は一体何なのか。単に何かを攻撃したい、現状に不満であるということを述べているようにしか聞こえないのである・・・。まるで文化大革命当時の紅衛兵と同じではないか。
●最近堺利彦の書いた文章をいくつか読む機会があった。社会党や共産党の設立に参画した人物だから、さきほどの議論から言えば左翼になる。しかしどちらかといえば、この人物の文章を眺めていると、イデオロギー云々というよりも、一人の文学者、或いは社会活動家としか見えない。特に大逆事件以後、死刑になった幸徳秋水他の家族を見舞う一こまには、社会的弱者を助けようとする、この人物の深い愛情が感じられる。例えればジャン・バルジャンを導くミリエル神父と同様である。彼に左翼というレッテルを貼ったのは、当時の国際情勢によるものだろう。なにやら馬鹿馬鹿しくなる。
●私の関心は常に人間のこころにある。主義主張とは別の次元だ。だから右とか左の区別には関心がない。政治経済の関係者が荒縄にひっくくって川に流してしまった左翼思想家も、私の中では宮沢賢治のような文学者と同列に位置している。一国経済の仕組みの問題は別にして、社会の底辺にある人々のこころの問題を取り扱うことは社会にとって重要である。現代に至って、なお貧富の差が拡大している状況をどのように解決していくべきなのか。またその痛んだこころを癒すものは一体何なのかということを改めて考えていくとき、戦前の左翼思想家の言葉は非常に参考になるということだけ、一言申し上げておきたい。