あなたの人生は平岡常次郎でよいのか(木羅)

●漱石の小説”それから”の中に、二人の特徴的な人物が登場します。一人は主人公の代助、もう一人は代助が略奪する妻の夫、平岡常次郎です。初めてこの本に遭遇して以来、私の中にはこの代助のようなわたくしであり続けるのか、常次郎のように勃興したての資本主義社会の先兵として歪んだ経済人となるのか、ということを考えてきました。結論から言えば、”非現実的といえども代助の方がマシ”という何とも積極的ではない結論が、社会人になって何年目かを迎えた時の答えでした。
●実際に社会に出てみて感じるのは、如何に平岡常次郎のような人物が多いかということです。小説の中に登場する常次郎は、就職した銀行で横領の罪を問われ失職。その後新聞社に勤務し始めるも、社会の悪しき何かに影響を受けるように、性格に歪みを生じていく、という運命をたどっていきます。社会の中に生きていれば、金槌で頭を殴られるようなことが時に生じるのはやむを得ないことです。ポイントはこの不幸な出来事を通じて、自分自身も歪曲していく常次郎の姿です。そこまで自分を卑しい存在にしていかなければいけないのかということなのです。
●代助と常次郎の生きた時代は、維新からほどない明治・大正の時代です。武士階級の時代が終わり、四民平等を背景にしたガツガツした資本主義社会が始まるのです。しかしその資本主義社会というものたるや、生き馬の目を抜くような世界で、高邁な思想の実現を夢見ていた青年たちの夢はいとも簡単に敗れ去ったことでしょう。常次郎の姿というのはそうした社会の生み出したものといえるのではないでしょうか。
●しかし明治・大正という時代と現在はどれほど違いがあるのでしょうか。表面的には違っているように見えて、常次郎のような人物を生み出すという意味で、寸分違いがいない。それが私の社会に対する印象でした。俗に没することなく、一時的にわたくしであるにせよ、常次郎となるのだけはやめよう。そう思った私は、未だにこの作品を読み、かろうじて常次郎ではないということだけを確認しております。

景気悪化の渦中に再び漱石を想う(巌野)

●再び漱石を取り上げる気になった。漱石の三部作”それから”に登場する主人公代助の友人、平岡常次郎のことである。
●細君を代助に奪われる平岡は、現実世界で垢にまみれて卑小になっていく経済人の悲しい姿を表現しているといっていい。かつて代助の同窓にして理想に燃える青年であった平岡が、お金に苦しんだ挙句、人生全体を斜に見る悲しい姿を呈していく様は、現代日本において日々接する風景と重なって見えることがある。
●かつて尊敬してやまなかった諸先輩・諸兄、友人等の中で、有為転変の果てに、本義を外して経済的利害の虜囚となる人をよく目にするようになった。何事において経済が低迷しているということが背景にあるのは承知しているが、事の本質から遠ざかり、個人的利害だけで物事を評価するようになっては、青年の時に描いた理想的な姿からほど遠いところに来ているとは思うのだが、本人が一向にそういう状況に追い込まれている自分の姿というものを評価できなくなるものであるらしい。
●そういう想念を抱く私という存在は、ある意味現実を知らない殿上人であるのかもしれない。ただ代助のようにわたくしでもなく日々労働し、大して偉くもない仕事に専心している。ただ何が何でも、人を押しのけてまで、己が利害をごり押ししようなどとは思っていないだけである。思い込みかもしれないが、青臭くも公の観点を損なわぬという部分を大切にしたいと考えている。
●本日もそういう一日だったといえるだろう。オリンパスの損失隠し・粉飾の類を指揮した取締役も本来ならば高潔な志をどこかに持っていたはずである。しかし現実世界に翻弄され禁じ手に手を出すことになった、そういうことだろうと思う。志を捨てずというのは極めて難しいことなのだろうが、苦しければ苦しいほどに初志貫徹を図るということを私自身は大切にしたいと考えている。