宮下教授の欲望の美術史を評す(浦崎)

●畏敬する先輩である宮下規久朗教授の新刊本を読んだ。”欲望の美術史”というタイトルは内容からすると平板すぎて光文社のマーケティング能力を疑う部分があるが、内容自体はさすがに美術史を人間の本能的な感性で深くとらえようとする宮下氏の緻密な洞察力が随所に散見されて、非常に面白かった。
●脱線するが、冒頭で畏敬するとはいったものの、”畏怖する”とまで感情が緊張しない理由を説明してみたい。宮下氏のキャラクターは、組織の論理を振り回す企業や官庁等にタケノコのごとく群生するお偉いがた諸兄とは本質的に異なる。学生時代の私は現在と同様、たいした価値もないのに、我流の世迷言を九官鳥のように小うるさく繰り返す得体のしれない若造だったが、宮下氏は批判も同意も極めてフェアだった。標準語から大きく逸脱した奇天烈な印象のある瀬戸弁の影響もあるのだが、先輩というよりも、長い時間を共有できる、学術界の奇人という印象の方が強い。大先輩であるから、西郷隆盛の銅像のように祭り上げたいという気持ちもあるのだが、恐怖心よりも奇妙な親しみの方をより多く感じてしまうのである。説明が難しいが、この人物について、世界のいかなる小説家も主人公として物語を編むことはできないだろうとだけ言っておきたい。
●本論に戻る。かくなる宮下氏がいう欲望とアーティストとの関係の洞察だから、本の内容はめっぽう面白い。ジョットやティツアーノなど名だたる画壇の偉人たちが、ニギニギしい物欲の虜であるからこそ、後世に残る作品を完成しえたという分析は、宮下氏なればこそ指摘しえたと思う。勿論、欲望そのものだけで芸術作品がなりたつものではないが、逆に欲望を煩悩として位置付けて、ゴミ箱に投げ捨ててしまう聖女のような無為自然ぶりだけでも、何事もならないということだろう。
●堀辰夫は”詩人も計算する”という名言を残した。若年の時、私はこの言葉にかなりの違和感があったが、今はどこか了解する部分がある。今回の宮下氏の書籍を読了したあと、ある種同様の部分があった。人間社会に属し、その欲望を自ら知るがゆえに、美が美として研磨される、ということだろう。聖人君子論ばかりを並べ立てる非現実的な論評を否定して、根源的なエネルギーと美術論の関係を分析した宮下教授のこの本は、かくなる意味で非常にエポックメイキングである。

フェルメールとラ・トウール並びに再び宮下規久朗教授のこと(浦崎)

●最近宮下教授とよくフェイスブック上でお会いします。私などは先生になる前の宮下氏と愚かな学生時代をすごした口なので、先生という言葉にはなじまない別の印象の方がより大きいのですが、それはさておき、一風変わった宮下先生が今度はフェルメールの本を出したということなので、エールでもひとつ送ってみたいという気分で、一筆書きおくことにします。
●少々脱線しますが、悪い遊びという意味で宮下氏との記憶でいまだに色あせないのは、時にアルバイト先でともに踊ったマイケル・ジャクソンの”Black or White”でありましょう。曲の冒頭から飛び出すマイケルの奇声の部分を宮下氏が口真似し、酩酊したアヒルのごときステップで踊る姿は、マイケルとは似ても似つかないものでした。しかし、あれほど恥も外聞もなく、かっこ良いともいえない姿で狂気乱舞する宮下氏の姿というのは、良くも悪くも脳髄の根幹に生涯忘れがたい記憶を残す効果があります。昨年マイケルの死が世界に伝わったときにも、私の頭に浮かんだのはマイケルのことというよりもむしろ宮下氏の踊り狂う姿でありました。
●話を元に戻しましょう。今回の宮下氏の本はフェルメールとラ・トウールであるようです。副題が”闇の西洋絵画史”となっており、ご本人としてはこちらを主題にしたかったようですが、副題とはいえ”闇の”などという物騒な副題をつけるあたりが宮下氏らしいといえばらしいでしょう。
●個人的には、米国で盗難にあったフェルメール作品に関するドキュメンタリーを非常に興味深く見たことがあり、作品そのものというよりも、この作家の作品に対する美術市場・画商の動きなどに大変な関心を持っているというのが、私の主な興味なのですが、果たしてそんな私の個人的な興味に応えてくれるものなのかどうか・・・。
●いずれにせよ、本屋で買って読むのはこれからなので、非常に楽しみであります。ただ冒頭の脱線した話題に関連したところでいいますと、例の”Black or White“のイメージが、フェルメールやラ・トウールにも伝染してしまわないか、読む前から大変心配しております。宮下先生の本が出るたびに、この手の心配をするのは、私ぐらいかもしれません。

宮下規久朗教授の著作に藤田嗣治の美術への情熱を見る(浦崎)

●先週おおよそ10年ぶりに宮下規久朗教授に会いました。教授が東大の変人と言われた時代から知人であるので、教授などと堅苦しい肩書き表現はこの際失礼させてもらうことにします。既に25年近くもたっているのですから。
●少々脱線しますが、宮下さんというのはちょっと変人です。今に始まったことではなく、ずっと昔からです。ファッションで変なのではなく、本当に、そして自然に変なのです。しかしポジティブな変人で、美術に対する観察眼と文章の達意にはいつも脱帽しております。あれほど服装のセンスが”難波金ぴか病”であるのに、核心にある感性は極めて自然で清楚であるといってよいと思います。
●その金ぴか宮下さんと、トルコ料理店でケパブを食しているうちに、最近の著作”裏側からみた美術史”という本をもらいました。随分酔っていたので、手にとって中身に目を通したのは、翌日早朝に新大阪から東京へ帰る新幹線の中でした。暖かいコーヒーと久々に接する美術史の世界に、ふと心が躍りました。
●さてその中身です。タイトルには少々違和感を感じましたが、第19話の戦争と美術というコラムは非常に面白いものでした。フランスであれほど著名であるのに、日本では今ひとつ花咲かなかった、藤田嗣治について述べている部分です。第二次大戦中に戦争画を描いたというそれだけの理由で、画壇から遠ざけられ、フランスへ戻るしかなかった藤田について、その作品を実際に見て価値を品評しているくだりです。特にサイパン島の玉砕図に関する鑑識眼には、ゆがんだ戦後の歴史観にひきづられることなく、”ひたすら見る”というプロ意識が感じられました。ただ、ピカソの”ゲルニカ”に匹敵するという評価を与えられた作品自体を、私は直接目にしたことがないということが、文章を読んでいる側としては少々残念でした。
●新横浜につくまでの間に、私はすっかり本を読み終えました。日常接する、汚れた現実、利害関係の関与する人間関係などに、うんざりするような気持ちになることが多い昨今、俗世間の意味不明な評価や判断を超えて、宮下教授のような観察眼でものを見る習慣を忘れてはいけないなと、ふとそんな感情をいだきました。東横線で最寄り駅に着いたのは朝の十時頃でしたが、平日の早朝以上にすがすがしく、何か前向きになれそうな予感がする日曜日でした。

宮下規久朗氏のサントリー学芸賞受賞を想う(浦崎)

●先輩・知人である神戸大学の宮下規久朗助教授から久々にメールをもらった。氏の著書「カラヴァッジョ―聖性とヴィジョン」は以前わたくしのブログでも紹介をしてきたが、今年のサントリー学芸賞を受賞したとのことである。人生の進路はおろか自分自身が何者であるかどうかすら定かでない時分に大変世話になった人でもあり、自分のことのように嬉しく思う。文京区某所にて宮下氏を含め現在各界で活躍する友人たちと過ごした時間が夢のようでもある。
●わたくしなどは宮下氏他の面々に比べればまだまだ暗中模索の途上のようなものだが、先人の栄誉には自分自身の姿も投影されて、将来があかるく見えてくるのは不思議である。30代後半に差し掛かって先に40代が見えてきた年代のわたくしが、かつての時間を懐かしむのは些か早い気もするが、あのときの利害関係を超えた或る意味での濃密な時間が、様々な分野での成功に繋がる礎になっているように思う。卑小な自分自身の存在も、まだまだこれからだなと明るく見えてくる部分があるのである。根拠はないが、大いにポジティブな気分になる。
●人生の折り返し地点に到達しつつあると感じる昨今、自分自身について改めて総括してみようという気分になる。遡る対象の多くは社会人になってからのものだが、根源的な宿命性のような部分については、社会に出る前の二十年ほどの時間を振り返ることもある。社会的な必要性と自分自身の宿命性を重ね合わせる部分が重要なポイントであると思う故である。その中で、宮下氏を含めた文京区界隈での強烈な体験の記憶は未だに多くの発想の根源となっているのはまことに不思議なことだが、わたくしに限らず他の知人も同様の感想を述べているのを見ると、やはり人生の中で相互に影響を与え続けた時間であったのかもしれない。自分自身を見つめなおすためにも、次に関西を訪れるときには、改めて宮下氏と歓談する機会を持ちたいと考えた次第である。

先輩-宮下規久朗教授の書籍出版を祝して(浦崎)

●わたくしが19歳の時、経済企画庁OB加納治郎氏の下でアルバイトをしたことがある。御茶ノ水の湯島天神に程近いマンションの一室であった。
●計画科学研究所という難しい名前がついていたが、実質的には学生向けの有料自習室であった。アルバイトの中身は、その研究所の受付を行うものであったが、実質名ばかりで勤務時間は殆ど自由に本を読むことができた。(加納先生は米国プリンストン大学留学中に学生が昼夜を問わず自習できる設備が沢山あることに心を動かされ、東京で同様のサービスをしたくなったのだということを、わたくしにも話をしてくれたことがある。今にしておもえば本を読みながらアルバイト代をいただけたことは稀有のことで、感謝の念にたえない。)
●その場所で同様勤務していた先輩が宮下氏である。わたくしは得たいの知れない自信と反面劣等感に満ちた若者で、大学院向けに修士論文を書いていた同氏からみれば随分鬱陶しい存在ではなかったかとは思うが、随分学習の時間をさいて遊びに出かけたものである。
●プロ野球の球団名称を問われて返答に窮すが如き世間知らずである同氏だが、当時からイタリアの画家カラヴァッジオの研究はわたくしたちと遊び歩いていながらもこつこつと継続していた。
●今回その研究の成果が浩瀚な一冊の書物になったと聞き、一筆同氏に啓上申し上げたいという気分になった。わたくしのような素人に理解できるかどうかわからないが、週末にじっくりと読んでみたいと思っている。