ふとサルトルを読む(浦崎)

●随分長い間文章を書かなかった。その間、これといって関心があるわけでもないのに映画や芝居は観た。が、興味深いものには出会わなかった。芸術作品は多種多様にあるけれども、私の場合はやはり活字のほうが向いているように思った。
●二十年ぶりにサルトルを読む。昔のものとは違い、最近の翻訳は練れているからストレスがない。したがって改めて受ける感銘にも新鮮さがある。嘔吐の主人公ロカンタンと自分自身の思考回路が極めて似ていることに、今更ながら気づいたのは、思いがけない収穫だった。
●いろいろな屁理屈をこねる以前から、どうしようもなく存在している自分は何者なのか、という問いに答えてくれるのはサルトルだけだったように思う。もちろん答えは何者でもない、というシンプルなものだ。人は面倒な生き物だから、社会ではもっともらしい意味を持ちたいと願う。しかし意味は殆どが、勝手な解釈論に過ぎない。死後に評論家や子孫にでも与えてもらうべきものだ。
●無意味であることを虚無的だと若いころは考えた。苦しみの源泉にもなった。しかしこの思考は間違いだと気づいた。元来存在しないだけで、自分自身と対話して導き出す”何か”は、非常に有機的なものだった・・・。サルトルを久々に読んで、そのようなことを考えた。春の到来を思わせる、妙に暖かい週末の出来事だった。