大陸的・儒家的な社会民主主義の時代を考える(永野)

●明治維新以後、主に江戸時代を舞台にした時代小説が日本では一番人気があります。弥次喜多さんたちが出てきそうな舞台設定に、実は日本人は一番弱い。
●太平洋戦争ででひどい目にあった司馬さんなどは、昭和が駄目だった分、明治時代が良かったのではと思ったのでしょう。しかし時代小説ブームを見る限り、江戸時代を懐かしむ人々の方が比率として高い傾向にあるとしか言えません。明治以後の、徹底的に合理性を追及する時間に疲れた日本人の本音が潜んでいるような気がしてなりません。
●同じような視線を大陸に向けてみます。習近平政権の言っていることを丹念に読んでみると、庶民の間に広がっている、毛沢東時代の「貧しくても平等だった。」、というため息に近い理想に、同調しようとしている気配があります。中華圏の文化の中心は千年以上農業にあります。農業が儒家を生み、富以上に共同体的な平等を理想とするのはごく自然な成り行きだと私は思っています。
●その点ロシアも同じです。外向きにはあっちこっち攻め込んで雷帝のように振舞っているプーチン氏ですが、離婚後は、ロシア人らしい親父ギャグが増えていて、国内で妙に人気がある一因になっていると思います。テレビを見ている側からすると、むかし畑でジャガイモを作っていた頃の、機転が利かなくておっかないけど、頼りがいのあるうちのオヤジ・・・、というような存在になっていると思います。ロシア人と話すときは、このような、大地で農作業をしている時のたとえ話が心地よいようで、遠目から眺めるとトルストイがいた帝政時代への愛着のように聞こえてきます。ソビエトの時代も含めた昔の時代のほうが、みんな貧しかったけど、平等だったなあ、という思いがあるのでしょう。
●このような貧しくても平等だったということに対する郷愁のようなものが、結構重要なものなのかもしれません。日本で江戸時代が庶民の心をいまだに射止めている理由がここにあります。行き過ぎた富や格差を生んでまで効率性を追及するのではなく、社会全体の安寧を図りたいという心でしょう。どうもこのへんが、太平洋戦争前後の歴史観に縛られた、一時代前の研究者や歴史家と意見が対立するところで、話がかみ合いません。明治新政府が考えた富国強兵策と合理的に導き出された産業資本主義が絶対正しいと考えている立場と、庶民が愛した文学作品から土着性の高い気質のようなものをくみ取っている私の立場の違いなのかもしれません。しかし、明治新政府から連綿と続く、資本主義一本やりの歴史は既に限界を迎えており、制度疲労の限界に近づいているのは間違いありません。
●2016年は、立派な職業政治家や研究所、新聞社の権威失墜の一年でありました。英国のEU離脱や米国大統領選挙について、彼らは観測と対処を誤り、現在は沈黙し続けています。シンプルに原因を考えるなら、世論を読む力がなくなったということでしょう。読むということは、統計データで数字遊びをすることではなく、人のこころを読むことだと私は考えております。
● 日本や、東アジア・ロシアといった国々に限らず、世界は今後資本主義専制の時代から、”貧しくても平等”という価値を取り入れて、社会民主主義的な傾向を帯び始めるのではないかと思います・・・。明治新政府発足以後、振り返るべきでない封建主義として退けられてきた儒家的価値観ではありますが、近代合理性の限界に近づきつつある人間を、次の時代へ誘ってくれるものではないか。私は最近そんなことを考えて、ふと江戸時代の文献を調べる日々を送っているのであります。

神のいなくなったロシア(巌野)

●カラマーゾフの兄弟には続編が予定されていたようです。本編最後に書かれた三男の修道僧アリョーシャが語る、悪い人間になるかもしれない、という一言がその可能性を示唆しているといえます。神さえいなければというドストエフスキーのコンセプトから考えて、宗教上の父親であるロシア皇帝に刃を向けていく内容なのではないかとよく考えたものです。
●実際にはドストエフスキー自身が病没することで、この続編は出版されませんでしたが、多くの研究家にとって、その続編の内容は、永遠に尽きない興味の対象であり続けています。神がいなければという一言は、神がいなくなった後の世界は、どのような世界と歴史を生み出すのか、という意味でも、個人的に大変関心を持っているいるテーマなのです。
●いま世界の神はどこにいるのでしょうか。宗教はお互いに寛容になり相対的な存在になりました。言い換えれば絶対性を喪失したということです。絶対に正しいことも存在しないし、間違いもない。いろんな神様がいるからそれでいいではないかという人もいますが、果たしてそれで人々は納得しているのでしょうか。
●人間は絶対的なものを求めます。夫婦愛、家族愛などは、りんごやみかんの議論のように、他のもので代替できません。そういうものを人は求めています。ですから、圧倒的に相対化された社会、神すらも選択可能な時代に生きている人々は、絶対的な幸福感を否定された存在になっているような気がしてなりません。ある意味で非常に不幸な時代になっているのでしょう。
●ドストエフスキーの時代に死ぬと予言された神様は、その後実際にロマノフ王朝の消滅とともに死にました。しかし、ソビエト連邦の消滅とともに、表面上は再び神は復活したように見えました。でも実際には、グローバル経済の海に投げ出されて、絶対的なのは資本主義経済の競争に負けた国や地域が、とことん世界で敗者の苦痛を味わうことだけでした・・・。ウクライナに在住するロシア系の婦人がある日そんなことを語っていたのを、わたしはわすれません。神のいなくなったロシアでは、専制君主こそが絶対性を持っていると映っているのだと思います。