再びポンペイの落書きを考える(浦崎)

●世の中の流行り廃りなどということに敏感な人々は多い。しかしこと人間についていうと、古来から全く変わっている形跡がない。ソビエトが崩壊した後は前進などという学者もいなくなったせいだろうか、小難しい論陣もなくただ生々しい人間だけが存在しているといったほうがいいのかもしれない。
●10年に一回程度のペースでイタリアの街ポンペイを訪問している。廃墟を廃墟として眺める人は多いのだろうが、個人的には落書きばかり見ている。訪問する度にラテン語で書かれたその落書きの翻訳文が増えているから、奇妙な旅人の関心はいつも満たされる。
●楽しいのは現代のSNS・インターネットやテレビ、小説・雑誌・マンガの類とたいした内容の変化がないということだ。お金の問題、男女関係の込み入った噂話、政治への不平不満などなどである。中には日本で女性誌の編集者にでもなれるのではという魅力的な落書きもあって、何日いても飽きることがない。
●しかし現代と寸分変わらぬなどという感想には、少々悲しみも禁じえない。ITやインターネットなどが進んだところで、あの落書きが世界中に拡散するだけではないかなどと興ざめしてしまうからだ。実際SNSなどというものが登場したので結構な頻度使ってみたが、ポンペイの落書きと何の違いもない。自慢・宣伝・嫉妬・恋愛・マネーなど無秩序な呟きが無制限に流れている。騒がしいといったほうがいいかもしれない。
●良いとか悪いというものではないだろうが、変わっていないものを進歩していると思い込むのもばかげている。facebookやtwitterなどというのは要するに巨大な落書き帳で、それ以上でもそれ以下でもない。面白いけれども別に新鮮というわけでもない。何だか気負ってインターネット・ITの時代云々と枕詞をつけずに、いやいや単なる落書き帳ですよ、といってもらうほうがわかりやすい。
●然様に歴史を2000年眺めてみると、確かに技術は進歩したかもしれない。しかし当の人間はたいして進化しもいない。従って人間のこころに注目している私にはやはり面白く感じる。歴史という時間を超えて、光輝く文章とそうでないものはポンペイも現代も同様なのである。時間を問わず光彩を放つ落書きには、それが無名のポンペイの青年が書いたものであっても、喝采を送り続けるばかりである。人間の愚かさと素晴らしさの双方の原点がポンペイにあるから、その落書きを読み、改めて人間を知るために、私は今年もイタリアを訪問する予定である。

ローマ帝国二千年の時を超えてイタリア・ポンペイを歩き、またその出来事を深く考える(浦崎)

●今回の東北関東の災害で生じた規模を考えますと、私はローマ帝国の町ポンペイのことを思い起こさざるをえません。紀元62年に大地震がおき、同79年に今度は火山の噴火と火砕流によって、数万人の命と町自体の存在を完全に喪失し、その後1600年ほど地中に埋もれていた町のことです。
●どちらかといえば、この町が現代で価値を持っているのは、ローマ帝国時代の生活・文化・習俗などを無傷に近い形で現代に継承しえたということです。火山灰や火砕流の堆積物によって、人や動物、建物や落書きの類まで風化せず原型をとどめているのです。
●かつてこの町を一人歩いて感じたのは、人の思考回路というのは変わらぬものだなということでした。ちょっとした落書きにいちいち足を止めてその意味を確認していくと、今の時代の飲み屋のネタとこれといった違いがありません。男女関係や、金儲けの話で満ちています。歴史は進歩することなく、ある一定の軌道をぐるぐると周回しているだけなのかもしれないなと思ったものです。
●ただ今回の東北関東大震災に少なからず影響を受けた立場で、改めてポンペイのことを考えてみますと、また別の感想も湧いてきます。あの遺跡で彫刻のように1600年間、その痛ましい姿を今の世界に伝えている遺骸の数々というものを、かつて私は遠い歴史上の一コマとして第三者的に眺めておりました。しかし、同様に数万の規模で死傷者・行方不明者を出した現実感の中にいまだ立ち尽くしている我々からすれば、それは決して他人事ではなく、切実な現実であるように思えてくるのです。痛みというものだけは、自ら遭遇し、同様に感じることがなければ、本質的に理解できすることができないものであるのだと、ふと思ったのです。
●ああ、これほど酷いものだったのか。痛いものだったのかということを人というものは、ただ眺めているだけでは理解できないものであるようです。私は偶然には違いありませんが今回の災害において、幸い生き残りました。しかし何がの表現しようのない痛みを知り、非常に大きな自然の力というものを思い知らされたような気がするのです。
●生き残った我々のこれからの道のりは、お亡くなりになった方々とは別の意味で大変な痛みを伴うものとなるでしょう。克服すべき課題が山積みであるからです。ただ痛みを知った人間であるからこそ、次の時代に遺せる価値が何がしかあり、本質的に追求すべきごくごく普通の生活というものを理解できるのではないかと、私は考えているのです。