洪秀全の夢、そしてデカルト万能主義の現代(巌野)

●太平天国の乱を起こした洪秀全が、乱の前、夢の中でとある老人と出会い、汚れきった世の中を一新することが天命だと諭された、という話がある。歴史上の逸話として面白いと思うのは、科挙に三度も落第した後だということだ。3年に一度程度しか行われない試験だから、10年越しの夢の実現の道を閉ざされたという状況にあったらしいというこうだ。
●悩みの尽きない人間は時に夢を見る。洪秀全の夢と同様に、真偽は定かでない。実際洪秀全の太平天国は勢いを盛り返した清軍に最終的に鎮定されてしまうから、夢の中に登場した老人のいう天命というものに意義があったのかどうかはよくわからない。異民族である満州族の王朝を倒す一助となったという程度の話だ。洪秀全にとってそれがよかったのか、悪かったのかも明白ではない。
●心理学者などはこの手の夢をいろいろという。潜在意識の現われだとか、まあいろいろだ。きっと現代の病院へ洪秀全が出かけたら、医者に”科挙なんかやめて、他に生業を探しなさい。それが一番だよ・・・”といわれるだろう。現代の科学万能の思考回路では、何事も特異な現象を人間の精神の問題(つまり非科学的な問題)だとしてしまうからだ。
●何事にも合理性をもって説明を加えようとする傾向は、17世紀のデカルト登場以後のことだろう。産業革命やフランス革命など、近現代の歴史はつねにこの合理性(言い換えると利益追求)を求める運動に終始してきた。しかし合理性を追求して、科学が発展すればするほど、実は説明のつかない更なる謎の存在に気づかされる、ということのほうが実ははるかに多いのだ。
●中世から近代まで、人間は宗教や福音書の教えを是として、ガリレオを異端視した。現代という時間は、逆にガリレオを神様にして、聖書やコーランを軽視しすぎているのではないだろうかと思う。世界の様々な宗教の中で、原理主義を信奉する人々が増えているという現象は、実はこの合理性追求によって生じる矛盾を起源としているのではないだろうかと、私には思える。
●洪秀全の夢と同等のものは現代の人のこころにもある。科学からすれば全てが根拠のないものだということになるだろう。しかし世界の合理性の矛盾(例えば貧困そして戦争)に気づいた人々には、目に見えない何かを必死に信じて生きようとしていると理解すべきだろう。敵対的に考えるばかりでなく、同等の目線で矛盾をみる姿勢が無ければ、現代の混迷が解決に向かうことはないのではないかと、私は思う。

デカルト全盛時代の疲労感の行方(隈川)

●国会中継などを見ていたり、大きな会社の取締役会などでああでもないこうでもないと議論しているのを聞いていると、最近大変な苦痛を覚えます。理解できないこと、疑問に思うことを相手にぶつけていくのは、近代合理性の観点から言えば確かに結構なことなのでしょうが、何か大きな嘘があるような気がしてならないのです。
●そこにリンゴがある、という単純な出来事を、いやいや存在しないかもしれない、いやリンゴに見えるが実はメロンかもしれない。役員ならばどちらか明白にする責務がある等というように、すべての議論が聞こえてきてしまうのです。美味しそうな林檎をひとつかじってみたいというような素朴な感想だけで個人的には十分なので、ピーチク・パーチク議論が起きるのがひどく不愉快に感じるのです。
●その手の疲労を癒してくれる言葉があります。作家ボルヘスがスウェーデンの神秘主義思想家スウェーデンボルグについて述べたくだりです。”スウェーデンボルグは、議論が誰をも説得しないこと、また真理はそれを聞く人々によって受容されれば十分だということを信じていた。彼はいつも論争を避けた。彼の宗教著作のどこにも巧妙な議論はなく、ただ簡素で静謐な肯定だけがある”。
●非常に落ち着く表現です。個人的にもスウェーデンボルグの神秘主義に関する著作に興味を持ち、果てしなく続く霊界通信(Spiritual Diary)を毎晩読んでいたことがありますが、確かにここでいう簡素で静謐な肯定だけがある、という表現に合致しています。現代知識人の疑いに発して疑いに終わるという熱意ではなく、これはこういうものだと淡々と語り尽くす肯定だけがあります。内容が神秘主義思想に関わるものであるからかもしれませんが、読み手も簡素に受容するだけでふと心が落ち着くのを感じるのです。
●考えてみれば現代文明はやたらに原因と結果をデカルト流に分析するだけの時代になっているような気がします。合理的であれば是、そうでなければ否、という具合です。ただよくよく考えていればこの思考回路で証明できることは今の時代でもごくごく一部です。宇宙の起源もIPS細胞も調べれば調べるほど実は謎が深まるばかりなのです。叡智を絞っても現代ではわかりえないことは、簡素にその現象を受容すればいいこともあるだろうとふとへそ曲がりの私は考えてしまいます。どちらかといえばパスカル流に、説明のつかないものをそっと切り分けて静かにその現象を眺めるということのほうが、理に適って、精神の安寧につながるように思うのです。