アントン・チェーホフの賭け(浦崎)

●チェーホフの小編に”賭け”(英訳:The Bet)という小説があります。死刑と終身刑のどちらが人間にとって過酷かという論争をする、富裕な銀行家と弁護士の非現実的な賭けの話です。内容は、15年間の自由のない監禁生活を弁護士が過ごすことができたら、銀行家は200万ルーブルを支払うというものです。
●賭けは成立し弁護士は15年間の監禁生活を送ることになります。そして銀行家は5年ともたないと思っていたにもかかわらず、とうとう15年目を迎えます。盛時の勢いを欠いて既に資産が大幅に減少していた銀行家は、200万ルーブルを支払って破産しないために、最後の日を目前にして、弁護士を殺そうとします。
●しかし弁護士は銀行家に置手紙を残して、賭けの成立を前にして脱走してしまいます。弁護士は自由をはく奪された15年間に膨大な書物を読み、その中で森羅万象を悟り、人間の愚かなるさまを軽蔑するに至ったのです。事実上賭けに勝ったにも拘わらず、当初欲求を覚えた200万ルーブルを、侮蔑の意味において放棄したと弁護士は手紙の中に綴るのです。
●非常に奇妙な小説です。賭けの結果は実質的に弁護士の勝利だったと思います。従って終身刑は死刑よりもやはり”まし”だったということで物語を締めてもおかしくはありません。しかし大団円は賭けの結果そのものではなく、寧ろ人間の無意味に果てしない欲求の深さへの絶望という形で締めくくります。要するに自由か不自由かという命題の設定以前の問題として、原罪的な人間社会に対する失望が表現されているということなのでしょう。チェーホフらしいニヒリスティックで意外性のある物語です。
●私が初めてこの小説を読んだのは中学生の時のことです。最初はさっぱりピンと来なかった記憶があります。それが最近Project Gutenbergを頻繁に読むようになり、昨晩久々に目を通したというわけです。印象としては、この逃走した弁護士もやはりある種の不幸な存在であると映ります。人間は愚かには違いないにしても、愚かさの中にあって悲喜交々の振幅を過ごすことそのものが人生ではないかと思うからです。弁護士の思考はある意味で神の視点に立っています。神(あるいは日本的にいえば”上”)から見れば愚かなりといえども・・・という部分に、世の中の大半の人生の物語があるような気がしてなりません。

人生の価値~トルストイとチェーホフを想う(浦崎)

●昨日は久々に日比谷近辺を歩いた。投資銀行やプライベート・エクイティ・ファンドの関係者と最近接点があるので、この界隈にオフィスを構えている会社を訪問するついでに付近を散策しているというわけである。ビジネスの現場で話す内容は殆ど会社や事業の価値に関わるものになるから、ベンチャー企業の華々しい上場の話だけでなく、やむなく廃業に向かわざるを得なくなった会社の生臭い話にもなる。世の中きれいごとばかりで成り立っているはずもなく、成功物語の裏には不成功物語もあるのはわかってはいるが、涼しい顔で話題に参加することに少々辟易することもある。皇居近辺などを散策するのはその意味でいい気分転換になる。
●会社や事業に関することは兎も角、改めて考えてしまうのは個人というレベルの価値である。経済性の面から見れば生涯獲得賃金の総和や、キャッシュフロー(支出項目を控除)の総和等で計算できるのかもしれないが、数字で表現してしまうとわたくしなどは何か物寂しく感じてしまう。個人のレベルになると、その人の満足感、或いは社会や家族に貢献した度合いなど多様な観点があると考えるからである。当たり前の話なのかもしれないが、改めて考えるとなかなか難しい問題である。
●文豪トルストイの作品にHow Much Land Does a Man Need ?(邦訳:「人には多くの土地がいるか」)という作品がある。バシケール人から、一日間で移動した線分の内側の土地を貰えるという条件に飛びついた、あるロシア人の小作人の物語である。やや欲を出しすぎたこの小作人は、帰り着く見込みのない遠方まで足を伸ばしてしまい、日没までに出発点に戻ることができないばかりか、過労により命を落とすはめになる。この小作人には結局、自分の遺骸を納める棺桶とそのために必要な少々の土地があれば十分だったという、トルストイらしいややシニカルな結末で終わる。人間には最終的に棺桶とそれを埋葬する土地という、いってみれば清算時の残余価値しかないのだということを寓喩的に示唆した作品である。これに対して同じロシアの文豪チェーホフは、人間の価値は人生を通じて歩んだ領域そのものであるという立場に立ち、人間の生き様そのものが価値であると反論している。
●いずれも個人の価値というものをある意味で正しく表現しているといえる。ただ、トルストイの解釈に従うことは、単に金銭的なことだけでなく、生来の夢の実現などの非定量的な価値を殺してしまう危険性がある。チェーホフの立場にあることのほうが、生きている人間が積極的に目標を実現しようとする姿を肯定しているように見える。少なくともわたくしにはそのように思えて仕方がないのである。会社や事業体、或いは政府のあり方も含め、大きな変化が起こりつつある現代においても、人間という存在の根幹的な部分は変わらないが故に、価値を如何様に定義するかということは、まだ生き伸びて人生を愉しもうとする人々にとっては、非常に大きな問題であるといっていい。短い時間の散策の中で、ふとトルストイとチェーホフの論争について考えを巡らせた時間であった。