ミュージカル映画レ・ミゼラブルを観る(イレナ)

●ミュージカルが大好きな私にはレ・ミゼラブルの公開はとてもうれしい出来事です。ミュージカル映画という形になっていますが、今回の作品はある意味劇場公開を撮影したような臨場感を持った作品なので大変楽しめました。昨年末に公開されてから、いこういこうとおもっていたのですが、この週末にようやく見に行くことができました。
●レ・ミゼラブルという非常にメジャーな作品なので、兎に角いちいちストーリーを追いかける必要がないのは非常に助かります。日本の歌舞伎のように、物語の基本線が理解できていない外国人には、時に大変な苦痛を感じることがあるのですが、この点今回は(日本に例えれば)義経伝説を下敷きにしてミュージカルを撮影するような気楽さがあるのです。
●また映画の撮影方法もなかなか面白いものです。映像と録音を同時に現場で行っている形式であるからかもしれませんが、後でアフレコで音を入れるものよりも圧倒的に迫力に凄味があります。本物のミュージカルを眼前で観ているようなリアル感があります。
●ただミュージカル作品として、小説本編と若干異なるストーリー、配役があるという点だけはちょっと残念な気がします。これは著名作品を選択してしまったということと、2時間程度のミュージカル映画作品にせざるを得ないという矛盾する点が存在するためやむを得ないことなのかもしれません。しかし、ジャベール警視の執拗さやジャンバルジャンの深い悲しみという小説作品を読まねばなかなか伝わってこない点が、結果として損なわれてしまうような気がして、個人的には寂しい感じがしてしまいます。この映画作品で初めてレミゼラブルを観た人は、小説オリジナルを再度よむことをぜひおすすめします。
●日本人にも、世界中のあらゆる人にも、世代を問わず勧められるこの作品が、更に広く理解されることを、個人的にも大いに期待しています。

ミリエル司教の赦しによって救われたジャン・バルジャンの心を想う(ゲオルグ)

●日本の検察庁の関係者の証拠改竄の件が話題になっているようです。そこでは”ストーリー”という言葉がたびたび登場します。”ストーリー”ありきで証拠を集め、(場合によって)証拠でさえ改竄してしまう、そういうことのようです。ただそこにあるストーリーは、コミックの世界と同様、悪い政治家や官僚、悪徳経営者の処罰というような、登場人物もコンテクストも劇画調に過ぎるものです。レベルの低い勧善懲悪モノを見ているような不快な気持ちになります。
●それはある意味で、中世キリスト教的な善と悪にちかいものです。完全にきれいに善と悪が分離されていて、悪魔を退治し神を守ることが正しいといって、ヒロイックな気持ちにでもなるのでしょう。マンガの世界や一部の狂信的な人々は兎も角、検察庁という頭脳集団がそのような”ストーリー”におぼれているのは、まことに不思議なことです。
●話を本題に持っていきましょう。私はVictor-Marie Hugo(ビクトル・ユゴー)のLes Miserables(レ・ミゼラブル)という小説を子供の頃から愛読しています。日本でも有名な作品だと思います。一塊のパンを盗んだだけで主人公ジャン・バルジャンが警視ジャベールに終生付きまとわれるという物語です。このバルジャンを、私は子供の頃から自分と重ね合わせて見る部分があります。人は必ず罪を犯してしまうものだということと、そこからどうやって赦しを得るかということを、夜寝る前にささやきかけてくれた祖母の面影も手伝って、今でも時に読みふける作品です。
●冒頭で述べた検察庁の検事は、この作品に登場するジャベール警視とどこかにた雰囲気を感じます。大小に関係なく罪を犯せばそれは罪びとであり、一度罪を犯したら必ず再犯に進むものだというような考え方・”ストーリー”に固執する存在だからです。正確には、ジャベールは証拠の偽造まではやらないので今回の検事ほど酷くはなく、司直らしい司直ではあります。
●ただそういう思い込み或いは”ストーリー”というものと現実の人間は違います。根っからの悪人も善人も存在せず、人は必ず罪を犯すものです、また善に目覚める存在でもあります。バルジャンもパンを盗み牢獄に繋がれたことによって、世界に対する憤怒の気持ちを強くします。これほど酷い仕打ちを受けるなら、世の中自体に復讐を果たしてやる、そういう感情を持ったのです。そしてたまたま通りかかった教会で銀の飾台を盗み、逃げたのです。ただ別件で捕縛され、警察から持ち物の飾台を見咎められたバルジャンにたいして、教会のミリエル司教は、”それはその男に与えたもので、盗まれたわけではない”といいます。バルジャンの境遇と負の連鎖を知ったミリエル司教は、その罪を赦したのです。バルジャンが初めて自らの罪を知り、改心することになります。冒頭の部分にある場面です。
●基本的に法律という存在は、あらゆる罪を犯す人という存在を救うものではありません。ただ罪に物理的な刑を加えるものでしかないのです。そういう仕掛けで人は罪を認知するものではなく、むしろ反逆と憎悪を掻き立てられるだけなのかもしれません。ミリエル司教に飾台窃盗の罪を赦されたとき、初めてその罪を認知したバルジャンの心というものが、本質的に人間社会が学んでいくべきことなのかもしれません。ひたすらパターン・マッチング三段論法ストーリーを研鑽する世の中は、本質的な心の物語を知るべきだと私は考えています。