ボブ・ディランの文学賞はおかしいという議論があるようだ(巌野)

●私はボブが好きなので、今回のノーベル賞受賞に違和感はない。しかし定義と分類が重要だと思う人は、妙だと思ったようだ。気持ちはわからなくはない。
●しかし違和感というなら、個人的には1953年のウィストン・チャーチルのほうがより強く感じる。文章や演説がよいからといっても、政治家であるから、アーティストには入らないと感じるからだ。文学という定義が崩れるにしても、芸術の一分野という分類が崩れなければいい。私はそう考えている。
●少々脇道へそれるが、ボブについて、私が最初に思ったのは、この際ノーベル賞なんぞ辞退してしまえばいいということだった。 ボブの反戦的なテーマからすれば、爆弾を発明した男が設立した財団から金なんかいらない、というような歌詞が出てきそうだと思ったからだ。いろいろ憶測はあるが、実際のところ、そんなことを考えているうちに、ボブの行方不明報道が出たのではないかとさえ思った。事実は闇の中だが、個人的にはこちらに興味がある。
●そういえば、最近ノーベル賞を辞退する人物がいない。歴史上3人しかいないらしいが、確信犯なのは、サルトルとレ・ドウク・トの二人だけだ。尊敬と親しみにおいて、私の中でサルトルは絶対だから、大好きなボブにも辞退してほしかったというのが、私の偽らざる本音だ。ボブも年を取ったから、反骨精神が消えちゃったかな、とふと寂しく思った。

ふとサルトルを読む(浦崎)

●随分長い間文章を書かなかった。その間、これといって関心があるわけでもないのに映画や芝居は観た。が、興味深いものには出会わなかった。芸術作品は多種多様にあるけれども、私の場合はやはり活字のほうが向いているように思った。
●二十年ぶりにサルトルを読む。昔のものとは違い、最近の翻訳は練れているからストレスがない。したがって改めて受ける感銘にも新鮮さがある。嘔吐の主人公ロカンタンと自分自身の思考回路が極めて似ていることに、今更ながら気づいたのは、思いがけない収穫だった。
●いろいろな屁理屈をこねる以前から、どうしようもなく存在している自分は何者なのか、という問いに答えてくれるのはサルトルだけだったように思う。もちろん答えは何者でもない、というシンプルなものだ。人は面倒な生き物だから、社会ではもっともらしい意味を持ちたいと願う。しかし意味は殆どが、勝手な解釈論に過ぎない。死後に評論家や子孫にでも与えてもらうべきものだ。
●無意味であることを虚無的だと若いころは考えた。苦しみの源泉にもなった。しかしこの思考は間違いだと気づいた。元来存在しないだけで、自分自身と対話して導き出す”何か”は、非常に有機的なものだった・・・。サルトルを久々に読んで、そのようなことを考えた。春の到来を思わせる、妙に暖かい週末の出来事だった。