ゴッホと啄木(浦崎)

●最近ゴッホと弟テオに関する話を美術に詳しい知人に聞いた。正確にいうと彼らを商売のネタにした画商たちの話だ。ゴッホの狂人的な部分は既に有名だが、弟テオについては、兄思いの品行方正な人物と思いがちだが、必ずしもそうではないということだ。死んだゴッホで一山当てたい、テオの嫁そして画商。そして同系列の絵を売り出したい画家や評論家。そうした人々の思惑から、オランダの教科書に出てくるような物語ができたということだった。
●京橋近辺を知人と歩きながら、まあそうだろうと思った。 脚色と広告にはおのずと別の目標があるから仕方がないものだ。以前こうした出来事は、この上なく不愉快だっだが、最近体内のどこかで消化できた。芸術作品なら、絵だろうと詩だろうが、自分でいいと思うものはいいし。つまらないものはつまらない。作品にへばり付いているプロモーションやコピー、御用評論家の文章などは、商売の世界だから、別の物語が書かれてる、そう理解するようにすればいい。プロモーションそのものを事実と誤認しないで見れば、それはそれで面白い物語だ。
●しかし、そうはいってみたものの・・・、という部分もある。先日石川啄木に金を貸したことがあるという、あまり著名でない文人の日記を読んだ。啄木氏は詩文こそ情緒的だが、金を借りた挙句、踏み倒したり、金を貸してくれたその知人に毒づいたりと、結構やんちゃで手に負えない側面を強く感じたのだ。啄木の詩は若いころ情熱的に読んだ口なので、結構がっかりした。作品だけを見ればいいとも簡単に言えなくなった。少なくとも私の中には、石川啄木=悪童、という印象ができて、これはこれで余計な事実を知ってしまったと、少々後悔した。
●世の中はすべて虚構だと誰かがいっていたと思う。年のせいか名前は忘れた。が、その認識は正しい。政治家の公約や求人広告ばかりが嘘なのではない。ひょっとすると物理学や数学も、確かめたわけでもないので、嘘かもしれない。実際何年もかけて証明されて賞賛の的だった定理が、100年たったら別の方程式に替わるということが起きる。ただ100年もたつと嘘つきとはいわれないだけだ。
●だから、あまり目くじらを立てて嘘だと騒がないことが肝心だろう。 すべては虚構だが、紆余曲折を経て新しい物語ができる。物語はサグラダ・ファミリアのように進化し続けるが、完成はしない。常に途中だと考えるほうが妥当だ。付け加えるなら、見ている側も変わる。若いころに考えたことは今は違う。将来はまた変わるかもしれない。変化し続ける虚構の接点で、信頼できるのは常に瞬間の今でしかない。今目の前にある人や作品を眺めて、これはいい。そう思えるものに出会ったなら、それはいい時間だ。賞味期限は永久ではないけれども、その瞬間こころを動かされている自分はいつも本物だ。

ゴッホの黄色を思い描く(東宮)

●わたくしは黄色いものが好みである。特別意味はないが何か高貴な印象がある。また繊細で狂おしい何かを感じさせるものがある。
●それほど絵画の世界に詳しいわけではないが、ゴッホの絵に頻繁に描かれる黄色を好んでいる理由は、そんなところにもある。心が癒されるというものではない。むしろ、ある仕事に夢中になっているとき、その情熱がある一線を越えてしまうのではないかとふと考えたりしたとき、狂気に満ちた自分とどこかで共鳴し、胸が張り裂けそうな気分にさえなる。
●しかし、濃厚で苦味のあるコーヒーを飲んだりすると、事後なぜか胸がすっきりとすることがあるのと同様、ゴッホの絵にも、毒性の強い自我を中毒症の危険から救い出す効果があるように思う。毒性は時に高めあい、時に中和しあう良薬になるのだろう。濃密に自分自身と向き合ったりする人には、キリマンジャロでも飲みながらこの画家の絵を眺めることをお薦めしたい。