みんなの党への失望はカネの問題ではない(永野)

●みんなの党への社会の批判はどちらでもよいと私は思っている。しかし私は別の理由で失望している。こころざしの問題である。そもそもDHC会長のコメントなどを熟読すればわかることだが、当の会長自身もみんなの党代表の変節そのものを問題視している。こころざしの低い政治家への献金は意味がないと判断したのだろう。実際、みんなの党のホームページに記載されている弁明文をみても、政治資金規正法や裁判に発展した場合を想定したコメントばかりで、こころざしそのものを糾弾されていることについて、何の答弁もない。私自身も大いに失望した。
●極論するとお金の問題などどちらでもよい。結局たいした社会変革の欲求もなく、政治資金規正法違反の報道に逃げ回り、党首のポジションに固執するだけの存在ではないかと映る。いっそのこと、社会の批判・党内の批判・国会内部の批判をすべて引き受けても、こころざし自身は変わらないと説明したほうがよい。このことがどうやら当の本人も、政党所属の政治家もわかっていないようだ。
●私は前々回の選挙でみんなの党に投票したが、DHC会長の言うとおり、そのこころざしの変節が気になり、前回選挙では投票しなかった。しかし今回の出来事で、その変節に対する懸念がさらに悪化して、ただの不快感になった。もちろん所属の政治家には一切投票するつもりはないが、代表個人の腹をみてしまった以上、いかなる政治行動にも信頼はもてない・・・。
●マスコミは政治とカネの問題と、議論を簡単に処理しようとしているが、本質はこころざしの低さそのものである。DHC会長と同様の観点で、多くの人々が深い失望と不快感を味わっているのではないか。

みんなの党の分裂を眺める(久里田)

●みんなの党が分裂した。結党三年目だという。しかしそもそも結党の理念がなんだったのかと思っていた矢先、江田元幹事長の記者会見が開かれて、そもそもの理念が政界再編だったということを思い出した。要するに、(江田さんには悪いが)政党が合体するとか、離散するとかそういうこと自体には、個人的な関心はないということだ。
●冷戦時代の社会党と自民党という対立軸もたいした意味がなく、平成の民主党と自民党という体制もたいした意味がなかった。ついでにいうともっとさかのぼって、大隈重信と板垣退助時代のいわゆる隈板体制対伊藤博文という対立軸にもたいした意味はなかったように思う。あえて言えば明治時代の成果は、憲法発布と国会開設だったという点で、(比較の問題だが)戦後よりも遥かに意味があったように思う。
●政界再編とかいうことはしたがって、関心の薄いテーマになっている。かつて民主党を第一党に押し上げたのは、いうなればフランス革命においてジャコバン政権を作り上げた、大衆の鬱憤解消エネルギーと同様のものだったといっていい。事業仕分けなどというものは、言ってみればジャコバン派の人民裁判とギロチンのようなもので、一時的に誰かをとっちめてしまうと、急速に生あくびの対象となった。
●政党の形などを政治の主題に掲げるのはしたがって無意味である。他政党との政党協力を図る前に政策コンセプトをリッチにすることが必要だ。民主党には何もなく、維新の会には国家感がない。みんなの党は意味不明である。同じように何もなくても、安倍さんは毎月きちんと給料を持って帰ってくるお父さんと同様、何だか羽振りがいい。だから安倍さんのほうがましだ、ということになる。倒産間際の会社では資金計画がいい加減ではたちゆかない。だからアベノミクスに魅力があった。しかしいつまでも倒産間際ということでもなく、そこそこの経済情勢になれば、非常時体制が弛緩して、国民は夢を見始める。そのときに花開く国策を準備しておかなければならないと思う。
●アベノミクスの賞味期限切れは、円安と株高が調整入りするまでだろう。株価1万8000円近辺、一ドル110円近辺で、国民の資産倍増の夢は終わる。そのときまでに、日本の国家としてのあり方、世界経済における反映のあり方を、国民に提示する政党が首班となるべきだ。
●アベノミクスの成長戦略の内向きな内容には、私は大いに失望した。政党はどのような形でもよいが、次の時代の国家のあり方だけは国会で議論してほしいと考えている。