スポーツ経営における確率論(隈川)

●最近スポーツを見る目が変わりました。アメリカ人の知人が本国に電話をして賭けをしている光景にたびたび遭遇するようになったからでしょう。要するに年間を通じて長い時間と試合数を消化して、最後に優勝するまでの確率を、打者の打率や投手の勝率などを考慮していくという、きわめて生真面目なビジネスとしてとらえるようになったというわけです。
●考えてみれば、これは一般のビジネスについても同じことがいえるでしょう。好き嫌いという話をさておき、最終的に勝ちを得るためのビジネスというものは、負けを少なく、勝ち試合を増やすということにつきます。打者の打率は有能な人でもせいぜい3割、投手なら20勝もすれば大投手です。勝率100%の選手などいません。ケガも出ますし、夏場に調子の出ない選手もいる。そういう不確実性を最終的な勝利に結びつけるということは、企業成績を迫られる一般の会社のビジネスと同じような気がしてくるというわけです。
●それでは勝つための法則とはいったい何なのでしょうか。まずは試合をすること(リーグにとどまっていられること)。選手の立場なら試合に出ることにつきるでしょう。企業経営者等には負けるかもしれないリスクにおびえて、100%勝てると見込めなければ何もしないという人も結構な数いますが、何もしなければ(リスクもないが)何も生み出されないということになります。この点スポーツ団体や選手の覚悟というのは非常に参考になるものがあります。まずは打席に立つという進取の気性がなければ何事も起きないというわけです。
●次は確率をいかに上げるかということです。時期や相性、体力などの状況に合わせて最適な選手の組み合わせを考えるということになりますが、目先の打率や勝率ばかりに目を奪われて無尽蔵に選手を入れ替えられる裕福なチームはさておき、普通の組織なら限られた資源配分の中で、チームとしての組織全体のパワーを最大限に引き出せるような組み合わせをを考えます。組織として波に乗ってくると、時に個々人の足し算をはるかに超えるような力を発揮することがままあるということです。逆に高額なスター選手ばかりを並べて、毎度Aクラスにいる割に結局のところ優勝できないチームというのもあり、こういうチームは個々人の利害ばかりが衝突してしまって、組織全体の力というものはきわめて低いということがよくあります。
●これは会社の経営についても同様です。やたらに報酬がよい会社なのに、ブラック企業としても有名になっている企業が、競争がすべてを解決してくれるという誤った人材登用術を信奉しているのと同様です。実はこういう企業に限って、上位者の縄張りが網の目状に張り巡らされていて、大変過ごしにくい環境になっています。一時的に良い結果が出るものを優先するあまりに、人の出入りがやたらに激しいので、いったん業績が下方に触れますと、蜘蛛の子を散らすように現場を動かしている人材は流出します。意外なことですが組織の突然死が起きるのはこういうタイプの会社ではないでしょうか。
●スター選手がいればそれに越したことはないのですが、そのスター選手でさえ確率的には所詮30%に過ぎないので、多くの2割打者をうまく使いこなす術を考えるほうが重要だということです。まあ当たり前といえば当たり前の話なのかもしれませんが、一見派手に見えるだけに、地道にその確率を上げようと努力しているスポーツ関係者の姿を垣間見ると、やはりそういうことなのだ、と妙に納得してしまうということです。
●最後になりますが、今年ヤンキーズで引退する選手にジーターがいます。あれだけ好成績の選手がずらりといる中で、これといってすごい成績というわけではないジーター選手がなぜあれほど長い間ヤンキースに在籍し、高額年俸をもらっていられたのでしょうか。スポーツ紙はチームの顔とかなんとか言って抽象化してしまいがちですが、結局のところジーター選手を置いておけばチーム全体のパフォーマンスが上がるという確率論に尽きると首脳陣が判断していると考えるべきでしょう。人の出入りが激しいからこそ、組織力のかなめを尊重するというのは非常に合理的な考え方だと考えるべきなのではないかと思います。日本企業も多くを学ぶべきではないでしょうか。

原因と結果を逆向きに考える(隈川)

●何か突発的な事件が起きた時、人は原因を解明しようとする。たとえば日本時間本日未明のウクライナ暫定政権の武力行使について、マスコミの関係者はウクライナ国内の右派勢力からの圧力の生だという。果たしてそうなのか、そうでないのか誰にもわからないが、マスコミがそのように説明すればひとまず世間は落ち着くらしい。奇妙なことだ。
●物事はえてして原因と結果を逆に考えたほうが正解に近いのではと思うこともある。今回の武力衝突によってウクライナの統治体制は、国内世論や欧州各国を含め、連邦制の採用が避けられないという印象を持ったはすだ。連邦制採用によってもっとも利益を得るのは、ロシアだが、ウクライナ国内の問題が落ち着くという意味では、米国も欧州にも利益がある。うがった見方だといわれるかもしれないが、一旦武力衝突を起こさせる、ロシア軍は一切介入しない、結果的にロシアの一方的な悪者の印象がぬぐいさられ、欧米とロシア・ウクライナ暫定政権のすべてにとって必要な、当面の事変の着地が図られる。そういうシナリオを関係者が描いたはずだ。正確な答えは誰にもわからないが、どちらが正しいのかなかなか現時点ではわからない。
●STAP細胞の問題も最近あった。ニュースだけを眺めていると、そういう現象があるのかと思うが、結果の証明が中途半端だったので、結果は仮説に戻った。難しいことはわからないが、このようなナンセンスな事件が起こる原因は、STAP現象を世紀の大発見としたいという願望だろう。願望が先入観となっているから、事実から目を背けても、結果は正しいと断言できることになる。先日の会見を聞いていると、超常現象の愛好家と説明の仕方が同じだった。原因に人間の願望がありすぎるから、結果は願望の延長線上にあるだけで、科学的には何の証明能力もない。
●少々脱線した。言いたいことは、結果だけに振り回されたり、もっともらしい原因の説明に、簡単に首を縦に振らないことだ。絡み合った蔦のような現実を、人は簡単に説明しようとする。しかし、そのような簡明すぎる説明はプロパガンダや詐欺師の口車と変わらないのではないか。私はいつもそう考えるようにしている。

猪瀬直樹氏の答弁を見る(隈川)

●都議会の猪瀬氏の答弁をみました。大変痛々しいものでした。ノンフィクション作家としての語り口はそこにはなく、ただの不器用な老人がいるばかりでした。そもそも東京都の副知事などになるべきではなかったなというのが私の偽らない思いでした。
●やや高慢で鼻持ちならないといった風の、元来の彼の姿を思い出します。少なくともただいま現在のような、真綿にくるんだ丁寧語などを、マスコミを前にして話すべきでないと。そんな風にあるぐらいだったら、そもそも政治の世界にでるべきではなかったし、もちろん知事になどなるべきではなかった。この際、都知事を辞職して原点にもどりなさい。私の中には自然にそういいたい感情が芽生えていました。
●徳州会問題の真偽などこの際どちらでもいい。選挙の前に、日常的でない高額の借り入れを行って、いまさら否定してなんになる。あっさりと認めればいい。否定しようがしまいが、東京都から補助金を7億円をもらっている医療法人から、無担保の借り入れをおこなったのだ。はっきり政治資金目当てだったといえばいい。少なくとも猪瀬氏がこちらの側で自分の事件を眺めたら、彼自身もそういったに違いない。
●しかし一体どこからこのようなことになったのだろうとふと考えてみた。ミカドシリーズを書いていた頃の猪瀬氏はよかった。マスコミに登場する機会が増えて、審議委員会やら、第三者委員会やらに登場し始めた頃から、何か間違った道に入っていたのだろう。切れやすい困り者だったはずの男が、カネの使い道を釈明する情けない老人に変わってしまった。まことに情けない。久々に涙が出ました。

デカルト全盛時代の疲労感の行方(隈川)

●国会中継などを見ていたり、大きな会社の取締役会などでああでもないこうでもないと議論しているのを聞いていると、最近大変な苦痛を覚えます。理解できないこと、疑問に思うことを相手にぶつけていくのは、近代合理性の観点から言えば確かに結構なことなのでしょうが、何か大きな嘘があるような気がしてならないのです。
●そこにリンゴがある、という単純な出来事を、いやいや存在しないかもしれない、いやリンゴに見えるが実はメロンかもしれない。役員ならばどちらか明白にする責務がある等というように、すべての議論が聞こえてきてしまうのです。美味しそうな林檎をひとつかじってみたいというような素朴な感想だけで個人的には十分なので、ピーチク・パーチク議論が起きるのがひどく不愉快に感じるのです。
●その手の疲労を癒してくれる言葉があります。作家ボルヘスがスウェーデンの神秘主義思想家スウェーデンボルグについて述べたくだりです。”スウェーデンボルグは、議論が誰をも説得しないこと、また真理はそれを聞く人々によって受容されれば十分だということを信じていた。彼はいつも論争を避けた。彼の宗教著作のどこにも巧妙な議論はなく、ただ簡素で静謐な肯定だけがある”。
●非常に落ち着く表現です。個人的にもスウェーデンボルグの神秘主義に関する著作に興味を持ち、果てしなく続く霊界通信(Spiritual Diary)を毎晩読んでいたことがありますが、確かにここでいう簡素で静謐な肯定だけがある、という表現に合致しています。現代知識人の疑いに発して疑いに終わるという熱意ではなく、これはこういうものだと淡々と語り尽くす肯定だけがあります。内容が神秘主義思想に関わるものであるからかもしれませんが、読み手も簡素に受容するだけでふと心が落ち着くのを感じるのです。
●考えてみれば現代文明はやたらに原因と結果をデカルト流に分析するだけの時代になっているような気がします。合理的であれば是、そうでなければ否、という具合です。ただよくよく考えていればこの思考回路で証明できることは今の時代でもごくごく一部です。宇宙の起源もIPS細胞も調べれば調べるほど実は謎が深まるばかりなのです。叡智を絞っても現代ではわかりえないことは、簡素にその現象を受容すればいいこともあるだろうとふとへそ曲がりの私は考えてしまいます。どちらかといえばパスカル流に、説明のつかないものをそっと切り分けて静かにその現象を眺めるということのほうが、理に適って、精神の安寧につながるように思うのです。