淵田美津雄氏と維新後の幕臣たちが現代に語り掛けるもの(巌野)

●数か月前淵田美津雄さんの特集をNHKで見ました。淵田さんと言えば、真珠湾攻撃の航空隊を指揮した人で、戦後になって、宣教師としてアメリカに渡ったというくらいしか知識がありませんでしたが、その道程はやはり簡単なものではなかったようです。
●戦後世代からすると戦中・戦前の話というのは、どうしても縁遠くなるのですが、軍隊のような巨大なピラミッド組織の頂点にいて、生きる目的と意義を完全に固定して生きてきた人が、180度別の道で、しかも元の敵国へ出かけるというのは、生半可な気持ちでできることではない。見ていてそんな感想をいだきました。
●歴史を眺めていると、こういう時代の裂け目のような時間には、同じような体験を余儀なくされる人々がいます。最近少々時間をかけて調べてみたのは、明治維新後の普通の幕臣たちのことです。銀座の木村屋を開いた木村安兵衛は有名ですが、数少ない経済的成功者の一人にすぎません。戊辰戦争に参加せずに、静かに明治を迎えた幕臣たちの行先は、静岡へ下るか、薩長を上司に仰ぐ下級役人・警察官となるか、それとも全く無関係な士族ビジネスに乗り出すか、3つのうちのいずれかしかなかったようです。
●興味深いのは、3つの選択肢のうち一番人気があったのは、最も給料が安かった静岡へ下るという選択肢です。現代からみれば役人になるほうがいいと考える人々が多かったのでは、と考えたくなりますが、当時の二君に見えずという価値観と意義からすれば、断然静岡藩士として生きるほうがよいということのようです。また逆に最も不人気だったのが、明治新政府に仕えることで、理由は同じだったのでしょう。生きる意義を、金銭的価値ではなくて、忠義・忠臣の道として捉えていた証左ではないかと思います。
●すこし話を戻します。昭和の軍神淵田美津雄さんが、江戸時代の幕臣と同じような心境で、終戦後の自分の故郷奈良で過ごした時間というのも、そういう意味で非常に厳しいものだったのだろうと考えるわけです。軍神だったはずが、官職を解かれ、敗戦の責任者・元凶とまで噂され、人間関係を断って、家で一人酒を飲む。それは簡単に解きほぐせる苦痛ではないだろうと思うのです。
●幕臣たちとの比較でいうと、淵田さんの場合、官職を得る道も、旧組織に残る道も雲散霧消したので、道は一つしかありません。要するに一人で何かするしかない。しかし一人何かをするときに、価値観や意義は家族を守る以上の特別なものはないように見えたでしょう。家族はとても大切なものですが、高邁なべき論で生きてきた人々からすると、 簡単に明日から気分を変えて、商売一筋というわけにはいかない、ということです。
●この点については、淵田さんの場合、たまたま目にしたアメリカ人宣教師の姿に心を打たれて、宣教師の道へ進むことになります。金銭的価値ではなく、同じ戦争で敵国側にいた兵士が日本で宣教している姿の中に、自分自身を見つけていくのです。幕臣に例えていうなら、西南戦争後に鹿児島で僧侶をやるようなもので、勝海舟山岡鉄舟でもこのような選択をする勇気はなかったのではないか。私はそんな感想を持ちました。
●どうしようもなく苦しい選択を迫られるのは現代でもよくあることです。勿論仕事を変えるということもそうですが、それ以上にもっと難しいのが、心の問題です。それまでの価値観や意義を完全に無視することなど、人間にはできないことです。腹にしっかりと落ちて、違和感がない答えを導き出そうとするとき、この淵田美津雄という人物が辿った道筋をふと思い浮かべてみるのもいい。今晩はそんなことを考えました。

パリ証券取引所の大暴落とポール・ゴーギャン(巌野)

●何事も計算だというビジネスマンA氏がいます。たぶん利益やリスクのことをさして言った言葉でしょう。彼の言葉の定義からいえば、本当の意味での衝撃的な出来事は何も存在しないということになります。果たしてそれは正しいのでしょうか。
●このことを考えるとき、私の頭の中にはゴーギャンの面影が浮かびます。ただの日曜画家でしかなかったこの人物が突然プロに転向する気になったのは、1882年のパリ証券取引所の大暴落が契機になったといわれています。証券会社で高給を取っていたゴーギャンにとって、それは衝撃だったのでしょう。人生に生じる予測不可能な出来事を直視したゴーギャンは、生活する目途も立っていない画業に専心することになるのです。
●これは常識的に言えば、計算不能なリスクを取る決断だといえます。冒頭に登場したビジネスマンA氏などは決してこのような選択肢をとらないでしょう。しかし本当の意味での予測不能な現実に直面したとき、人は経済性や常識の垣根を越えて、本質に目覚めるのではないでしょうか。計算できる、或いは想定できる未来の枠の中だけで生きていくということは、概念として衝撃的なものではありません。また衝撃的な出来事をもって本質を知る機会になるのだとすれば、全ては計算できるという思い込みの中で生きている人は、反面不幸な存在であるのではとさえ、思ってしまうのです。
●仕事も捨て、家族とも別れ、タヒチで独り孤独に死んでいくゴーギャンの姿は、常識から言えば悲劇的です。しかし衝撃をもって、本質を知ったゴーギャンにとってそれは不可避な自分の運命のようなものだったのではないでしょうか。本質というのはえてして常識を踏み越えていくものです。踏み越えた先に何があるかを計算して、足を踏み出すようなものではありません。ただ自分の前に広がっていく一本の道を歩いていこうとする、とてつもないエネルギーを自覚するというだけのことではないでしょうか。
●この十年間に生じた大地震と経済危機は、私を含め多くの人にとって衝撃的な出来事だったのではないでしょうか。それはビジネスマンA氏のいう計算できる類のものでもなく、その意味を単純に咀嚼できるものでもありません。ただひたすらに打ちひしがれる時間と、受け入れなければならない痛みを感じる、長い長い時間の連続でした。しかし、種類は違っていても、やはり歩んでいくべき一本の道が、各人の前に広がっている、ということに、そろそろ気がつかねばならないではないかと思います・・・。東北にある親戚と友人たちの墓を最近訪ねて、私はふとそんなことを考えました。

黒岩重吾先生に学ぶ(阿房)

●阿房は大阪の所謂あいりん地区で何日かすごしたことがあります。若い頃、尊敬する作家、黒岩重吾先生に何かを学びたいとふと思い立って、東京駅から夜行列車にのって大阪まで行ったのです。随分思い切ったことをすると、かなり時間がたってから会社の先輩に言われたんでございますが、当時は(・・・というか今もですが)人生を裏の裏まで眺めてみないとなかなか見えてこないものがあるような気がして・・・、(とはいえ)いろいろ考えるのが面倒くさくなり、突拍子もなく現地へ行ってみる、というはぐれ雲のような生き方をしておりました。体当たりでいろいろやってみて初めてわかるということが、実際阿房の人生には多かったということなのですが・・・。
●格差社会という言葉がまだなかった頃の話です。しかしそんな言葉はなくっても、あいりん地区は当時から立派に格差社会を象徴する場所でした。黒岩先生が作家になる前のこと、体調を壊して入院しているうちに、保有していた株が大暴落ということがおきました。すってんてんになった先生はあいりん地区で生活する道を選びます。選ぶというよりも他にすべがなかったということなんでしょう。兎に角そこで、すべてを失った先生は、いよいよ小説を書き始めるわけです・・・。
●人生何事も計算して、計画的に、とかいう人がいますけど、そんな定規に当ててまっすぐに線が引けるような人生航路なんてどこにもありません。煎じ詰めれば一寸先は闇でもあるますし、ひょっとすると桜の園かもしれません。ちょっとでもリスクをとらなきゃ何も変わりませんし、逆にリスクが大当たりして奈落の底ってなこともありうるわけです。あいりん地区に生きた黒岩先生もきっとそんな境遇でいろいろ考えたんだろうなと、私も三畳しかない部屋に三日も寝転がってあれこれ考えました・・・。
●人が変わるときというのはどんなときでしょう。私自身もそうですが、ただいま現在の境遇がそこそこに生活できる水準だったりすると、つまらなくても、まあ飲み込んで維持しようという下衆な根性に支配されてしまいます。普通の人は従って変化できません。しかし幸か不幸かわかりませんが、否応なく変化を迫られることがあります。今もっているすべてのものを捨てて、体ひとつで寒空に追い立てられてしまうのです。変わろうと思っている前に、世の中のほうが勝手に変わってくれちゃっうのです。
●いやあ困ったな。きっと黒岩先生もそんなことを考えたんだろうと思います。学歴も国籍も、親戚も、何の役に立たない。どうせならひとつ面白い物語を書いて、人生最後の華でも咲かしてやろう。きっとそんなことがきっかけになったのではないでしょうか。本人は大真面目ですが、第三者から見れば悲劇的であるとともに、ある種軽妙な喜劇のようでもあります・・・。人の転機の迎え方というのはまあそんなことなんでしょう。
●社会人になってからの阿房も同様です。気まぐれな世の中の偶然に右往左往してまいりました。あれもやり、これもやり、成功したかと思えば奈落の底。この世は地獄と思った翌日には、天女のような女性と遭遇。思いがけず結婚したものの、今や天女は鬼と化し、阿房は馬小屋につながれた家畜同然の立場となりました・・・。住宅ローンが残っているとはいえ、この際全部投げ出して、あいりん地区から出直そうかと、結構真剣に考え始めたところです・・・。人生イロイロ、でもこんな阿房ですら自分と真剣に対峙してみたいと思っております。ゼロから何かを考えるためには、またあいりん地区からスタートしないといけないなと、深夜に強い覚悟をもった次第。

明治維新後の士族たちは如何に生きたのか(巌野)

●株式市場は活況ですが、足元の経済環境は最悪といっていいでしょう。労働市場ではリストラ・解雇などという物騒な言葉ばかりが流行病のように伝染して、景気が良くなりそうな予感がまったくしてきません。経済がよくなるにしても、きっと今までとは違う形になるのだろうと、何となく考えますが、さてどのように生きていったらよいのか、皆そう考えているに違いありません。
●東北大震災発生後という意味では第二次世界大戦後と対比し復興を唱える論調は世間的にかなりあります。しかし、こと労働市場を眺める場合には、明治維新後の士族たちの生きざまの方により多くの共通点を感じます。ある日突然本業の停止を命じられるという意味では、明治維新後の幕臣、また廃藩置県後の士族の失業の方が状況が近いと思うからです。
●因みに江戸城開城後の幕臣は約3万人(内徳川慶喜に従って駿府に従ったのは5000名のみで、約2万人が失業)、廃藩置県で突然失業した武士は約200万人に及んだといわれています。規模という意味では明治維新後の最大のリストラ事件はこの時期に集中していたといっていいでしょう。200万人相当の家長と家人を加えると日本の人口の10%以上の人がリストラにつき合わされたことになりますから、大変な規模です。
●これに対して今年新聞を騒がせた大企業のリストラ規模ですが、シャープが1万人、パナソニックが3年間で7万人、ソニー1千人といった具合であり、日本全体での失業率は11月現在で都合4.1%程度、完全失業者数は260万人ということです。単純な比較は難しいですが、突然のリストラという意味では廃藩置県時と比べれば、現代は大したことはないと思える規模なのかもしれません。
●話をもとにもどしょうましょう。さて士族たちはその後どうなったかというと、大半は従来とは全くことなる職業を選択します。新政府や地方自治体に出仕したり(5万人程度)、内乱を起こしたのはごくごく一部で、殆どの人々は士族商売と揶揄される通り、慣れない商売に手を染めたり、農業従事者となる道を選ぶことになります。これは大変な産業構造の転換であり、征韓論や自由民権運動を生ずる素地となったといっていいのかもしれません。
●ただそうした中で、曲がりなりにも富国強兵という一語のもとに国の形を作っていった明治政府や旧士族たちというのはたいしたものだといっていいでしょう。わかりやすいところでいえば、旧幕臣たちが現在の牧之原(静岡)で茶園を育てあげたり、北海道に旧藩ごと移住して開墾したり(北海道伊達市等)といった例があります。苦しみながらも新たな産業、新たな場所へのスイッチをしていかなければならないという中で、こうした歴史上の出来事は非常に勇気づけられる部分があるのです。
●規模の違いこそあれ現代の日本も新たなステップを切らなければならない状況にあるのかもしれません。今まで給料を得てきた職業とは決別し、リスクを伴っても新天地を切り開かなければならないということです。従来の成功体験にしがみつくよりも、これからの日本の形を探し新しく根を張るタイミングにきているのでしょう。リストラをせざるを得なくなった大企業とは決別し、旧士族のごとく失敗も恐れず大海原に出る勇気が、日本全体のサラリーマンに必要なのかもしれません。

羅針盤のない世界を歩き改めてポランニーのいう転換を知る(浦崎)

●結局のところ資本主義とか社会主義とかそういう経済の仕組みは等しく無意味だった、そんなことを最近よく考えます。社会主義を遠ざけて純粋に自由競争の勝者だけを報いるという社会をグローバルに推し進めた結果、世界全体が等しくバブルとなり、反作用として救いようのない規模でデフレに収斂しています。一気にV字回復して”神の見えざる手”によって、新たな均衡が生ずるなどという世迷言は現在では信じる人はいないでしょう。
●預金しても利息は付かない。とはいえ、株式や債券に投資しても価値は下がり続ける。まあどうしようもないといえばどうしようもない状態です。お金は大変な規模で市中に流れているのに、投資に値するような銘柄や物件はないから、銀行の口座の中で長らく冬眠しているというわけです。これだけお金があふれているから、いつかはまた反作用として急激なインフレとなるのでしょう。中庸はなくて極論だけが存在する社会になっている、そう言って差し支えない状態なのだと思います。
●近代経済学の学者諸兄は、”いまさら社会主義はないでしょう”などと簡単にいうのですが、”資本主義もとてもいまのままではもたないでしょう”とも言います。立派なことを言っていても要するに何の答えもないわけで、困ったものだなと思います。が、そういう難しい時代に我々は生きているということなのだと思います。
●ハンガリー出身の経済学者カール・ポランニーの”大転換”(The Great Transformation)をかつて結構な時間をかけて読んだことがあります。バブル経済のただなかにあって、当時二十代の学生だった私からすれば今一つピンとこない話ばかりだったのですが、その中で述べられているグローバル経済の発展がいきつくところまでいって、そのあと再び複合社会へと向かうという説は、そういう意味で今の私にはわかりすぎるほどわかる話となりました。
●世界はいきつくところまで膨張する。新興国はある一定規模まで成長し、欧州のように地域の枠を超えた統合を図り規模の経済を追求する。そういう市場経済の進展というのはすでにいきつくところまでいったということなのだと思います。この後にやってくるのは、複合社会・あるいは複雑怪奇な無数のミクロ社会への分裂ということになるでしょう。ギリシア・スペインだけを眺めて世界を論じていてはいけません。短期的にはともかく、再び世界は意味ありな混沌・アイデンティティを求める社会の群生という状況になると私は確信しています。

1837年の大塩平八郎の乱は幕藩体制崩壊の序章である(浦崎)

●幕末の時間の中で真の意味で衝撃的な事件というのは大塩平八郎の乱ではないかと思います。大阪奉行所の与力だった男が、幕府に物申すといった趣旨で起こされるこの反乱は、言ってみれば内部告発者による革命であるからです。外様大名や薩長の下級藩士の起こすものとは質的に相違します。
●私などが関心を持つのは、この反乱の背景です。前々年の1835年に始まった天保の大飢饉で米不足になり、米の買占めや独占を行う商人や幕臣の姿に深く心を痛めた大塩が、自ら反乱を起こすのです。ある意味国家の危機的災害において、如何にその危機に対処するかということは古来から為政者の能力が試される部分があり、この時の幕府の無能振りが大塩の決起をあおったといって間違いないでしょう。
●政治の体制が徐々に勢力を減衰させていく過程では、ペリー来航などの外部からの圧力だけでなく、天変地異や内部瓦解などのプロセスを経ることが多いといえます。幕末の時間の中では、幕府が本質的に崩壊プロセスに入ったといえるのはこの反乱からであるといってよいかもしれません。ペリーが浦賀に来航する1853年からさかのぼること15年前で、まだまだ幕府が磐石と言われた頃の出来事です。
●昨今国内で生じた大地震などはある意味そういう大きな変化・うねりの予兆にみえなくもありません。対応した首相が矢面に立っているように見えますが、実際のところそれが自民党であっても大差なかったのではないかと思います。むしろ既存政党の無策・無能に対する失望感が増しただけのことで、今後は与党・野党を問わず実りのない内部抗争が続くだけではないか、そんな風に思います。国会議事堂で日々繰り返される無味乾燥な議論は今後大塩のような内部関係者の造反・革命を誘発する導火線となるのではないか、昨今の状況を眺めながらそんなことを考えた次第です。

三島由紀夫45歳の喪失と恐怖(巌野)

●三島由紀夫に麻薬のように凝ったことがあります。ちょっと彫刻的で鋭利な刃物のような文章の切れ味、美しさというものが、十代後半の私にはちょっとした魅力であったのです。その三島由紀夫は何故クーデターまがいの事件で割腹自殺を図らねばならなかったのかというのは、当時の私には謎でした。何故そんなあり得ない仮説で決起し、自らを滅するという道を選ぶ必要があるのか、全くピンとこなかったのです。
●ただ自分もそこそこの年代になって、三島由紀夫の45年間の人生を隣人や友人のように眺める立場になってみると、どこか思い当たる部分があるような気がしてきます。劣等感に苛まれながら詩とロマンチシズムに埋没する二十代の時間、豪奢絢爛なステイタスを背景に、神の如く世界の物語を自分の理解で俯瞰しようとした三十代、そういう時間を越えて、三島由紀夫という作家には恐らく語るべき物語が完全に消えたのではないか、そういう風に考えるようになったのです。
●特に晩年の豊穣の海という大作を読みますと、本質的に三島由紀夫らしい三島由紀夫というものが一向に見えてきません。ただ輪廻転生というテーマが骨組みとして機能しているというだけで、主人公や登場人物は表情の見えないでくの坊といった体です。社会や自分自身が投影する人間性の影がなく、ありきたりな偉人の銅像のように無言なのです。
●考えてみれば、こういう現象は人生の後半に生じる普遍的なことであるのかもしれません。階段を上がれば上がるほど、ロマンチックで繊細な感情で捉えた何かが、陳腐で現実的なものになり、より大きな鳥瞰図で物事の本質を捉えようとして、逆に根源的なエネルギーを喪失している自分に気付く、それはある意味で、普通に老境の入り口にたった人の姿なのかもしれないと思うのです。
●それは恐らく猛烈な恐怖だったに違いありません。常に克服と前進を心がけていればいるほど、その人は前進の大義を重視するものなのです。大義そのものを今後益々喪失し、最終的に抜け殻のような骨と皮になる恐怖というものを、三島由紀夫は考えたのではないか、そんな風に思うのです。
●人生のテーマは長くゆっくりと訪れることもあれば、短く激烈にやってくることもあるでしょう。それは人それぞれです。若年の知見が晩年に見事に成就することもあれば、多くの詩人のように夭折という形で最後を迎えることもある。そこに標準的とか平均的という概念、他人と同様にという価値観を持ち出す必要はないでしょう。自分らしくある、自分らしい生と死を考えるということを、自分自身で考え、決めてゆけばよいのだろうと思います。何歳で死ぬとか、いつまで生きたいとか、そういう不毛なことを考えるよりも、自分自身の本質にこだわればいい、三島由紀夫のことを思い出して、私はふとそんなことを考えた次第です。

フレデリック・ショパン39年間の人生、そして別れ(浦崎)

●土曜日の早朝、京都の御池堀川を歩きながら、私はふとフレデリック・ショパンのことを思い浮かべていました。人影がまばらな街角は降り出した雨でしっとりと濡れて、一雨毎に寄せてく季節の肌寒さが、スーツ姿の私にも何故か敏感に感じられて、思いがけず感傷的な気分にとらわれました。コツコツと音を立てる自分の革靴の音が、ピアノの鍵盤をたたく音のように聞こえ、それがいつの間にかピアノ曲・別れの旋律に転じていったのです。
●かつて同じように秋のワルシャワを歩いたことがあります。そのときはもっと寒くて、厚手のコートを着た私は、意味もなく街を歩き、目指していたわけでもないのに、ワジェンキ公園の、彼の銅像の前にたどり着きました。まだヤルゼルスキーという人が大統領をやっていた頃のことで、確かショパン生誕180年という記念の行事をやっていたように思います。
●時間はたっても変わらない感情というものがあるのかもしれません。私の中に滲みだしたショパンの旋律は、昔と寸分変わらず、私の中の何かを刺激していました。ひりひりするような執着ではなく、真摯で深い部分に根ざした愛情や友情のようなものが、意図しない不可抗力の荒波にもまれ、そして損なわれていく。春に芽吹いた花がつぼみを大地に落とすように、自然なことであるからこそ、どうしようもなく共鳴する力と、悲劇的な美しさを印象付けるのかもしれません。
●人は宿命的に縁を持ち、またそれをいとも簡単に喪失するものです。ショパンの場合、それは作家ジョルジュ・サンドとの別れであるのかもしれません。肺結核を長年患い、39年という短い時間で人生を終えたこの人物にとって、晩年の9年間にマジョルカ島で過ごしたサンドとの時間は、苦しみの中に生じたつかの間の幸福であったに違いありません。しかし宿命は不条理に訪れ、ショパンは孤独に死の床につくのです。
●京都での予定を終えた私は桂から三宮に向かいました。土地勘のない私は何度か乗る電車を間違え、見知らぬ駅で降り、強く降り出した雨空を眺めながら、人影まばらな駅のホームで思いがけず長い時間立ちつくしました。今年生誕200年を迎えるショパンのこと、私自身のこと、そしてどうしようもなくやってくる別れの予感を感じながら。

イタリア旅行で開眼したオーギュスト・ロダン35歳の転機(浦崎)

●先月ニューヨークのメトロポリタン美術館を訪れた際、私の目に留まったのはロダンの”カレーの市民”でした。足にサイズの合わないサンダルを履いて、かなり長い距離歩いたせいで酷く疲労困憊していたのですが、その瞬間何か目の覚めるような新鮮な力を感じました。彫刻という芸術表現のせいでしょうか、空間にこだまする不思議な力に何かをもらったような気になったのです。
●ロダンという人にはある種の職人気質があります。無理もないことです。そもそも職人という時間をベルギーで6年間も過ごしているのですから。親方と弟子というミケランジェロの時代から変わらない環境で、黙々と働きせっせとお金をためる地道で堅実な職人だったのです。
●そのロダンがある日芸術に目覚める瞬間がやってきます。イタリアです。ベルギーで親方との関係を悪化させたロダンは、妻子を伴ってイタリアでルネサンス時代の彫刻を眺め、気取った美術でも職人気質でもない、自分自身の作品作りというものに開眼していくのです。ロダンが35歳のときのことです。
●”カレーの市民”はロダンが48歳に時に完成した作品です。イタリア旅行から13年、既に彫刻家として円熟の境地に達していた頃に仕上げられたものです。英仏の歴史に名高い史実をモチーフにしていますが、ロダンの職人のように熟練して、妥協しない荘厳な力のようなものがあふれている作品です。
●久々にロダンの作品に遭遇した私も、かつて彼がイタリアでミケランジェロに遭遇したときと同じような衝撃がありました。ミケランジェロがロダンに教えた何か、ロダンが35歳にして学んだ何かが、ふと理解できるような気がしたのです。前後もわからずただ走り続けた20代、そして頂点と破滅的な失敗の双方に遭遇した三十代という時間を越えて、兎に角作り上げていかなければならない何か、そういうものが理解できたような気がするのです。

23歳のアンドレ・マルロー、その衝撃と混沌(巌野)

●一昨年、投資で結構な損をした。世界中でそんなことがおきていたのは後から知ったことだが、個人的には衝撃だった。お金にはそれほど執着しないほうだが、経験してみないとわからないものだなと思った。
●同時に私はある人物のことを思い出していた。アンドレ・マルローのことだ。大学に通っていたときにたまたま読んだ、氏の著作、「人間の条件」のこともあるのだが、どちらかといえば彼の前半生のことである。資産家の妻と結婚したマルローは、その資金を元手に株式投資にのめりこむ。しかし結果は惨憺たるものとなり破産するに至る。氏が20歳前半の頃のことである。
●破産したマルローは、更にインドシナを旅し、寺院の宝物を盗んだという罪状で禁固三年の判決を受ける。まさに滑って、転んで全てを喪失したといっていい。刑期は後に減刑されることになるが、一連の事件に前後する数年間というのはマルローにとっては、忘れがたい記憶になったはずである。マルローが突然小説に目覚め、ゴンクール賞を取る前のことである。
●その後の小説家としての栄達、レジスタンス・義勇兵としての従軍、ドゴール政権下の文化相としての時間というものはよく知られたところだ。ひたすら小説を書き続けられるほど世の中は安全でなく、またマルロー自身の多彩な能力と情熱の所在ゆえか、文化人のみならず軍人・政治家としても何事かを後世に残すことになる。
●何故マルローのことを思い出したのだろう。時間に余裕のあった私はそんなことを考えた。投資で巨額の損失をだしたからなのかもしれない。或いはそこで知ったどうしようもない喪失感をどのように消化していけばよいのか、そんなことだっただろう。ただ渦中にあるとき、人はよく考えられないものだ。考えようとすればするほど混乱し、抜け出せなくなる。
●何でもよいから兎に角前進するしかない。前がどこかもよくわからないけれど、進むしかない、私はそんなことを考えた。ちょっと変わった仕事に取り掛かる、失敗する。映画を見る、逆にひどく落ち込む原因になる。そういうことを何度もくり返した。そうせざるを得なかったし、だからといってそのことを後悔するばかりではなかった。本質的に自分にとって何が必要なのかそのたびに一生懸命考えるようになったのだ。
●人生は得てして思う様にならないものだ。むしろ希望と相反する結果ばかりに遭遇するときもある。しかし、そういう衝撃的な事件があるからこそ、われわれは真剣に考えるテーマというものがある。23歳のアンドレ・マルローにもそんな喪失感があり、何かに目覚める契機になったのだろうと思う。