迷走する欧州(永野)

●ゴーン氏をめぐる報道を眺めている。フランスや日本のマスコミが関心を持っているテーマにはあまり興味がないので、失望も期待もない。ただゴーンも現代の普通の人々と同じだというだけだ。
●日産のゴーン容疑者のニュースはフランスでも日々流れている。マスコミの本質はどこでもたいして変わらないものだが、フランスらしいのはゴーン氏の人権問題と日産・ルノー連合の資本関係ばかりに意見が偏向していることだ。今も自分の国が歴史を前進させているという自信がある半面で、思わしくない経済実態に直面しているフランス経済の現実がほの見える。
●ただ眺めている限り、経営上の本質的な問題はむしろルノーにあるのではないかと見える。日産が危機に瀕しているときにたまたま株式の所有などを通じて支援を行ったこの会社には、グローバルマーケットで戦える車種もなく、日産の利益の連結によってかろうじて経営が成り立っているに過ぎない。
●日産や三菱とのグループ形成が不可能となれば、ルノー単独でフランス国内の雇用を守り切る自信がないのだろう。G20でマクロンが異例の日仏会談を申し入れたところからしても、ルノーの問題はより深刻なのだとむしろ印象付けられた。
●欧州の問題というのはいつも複雑である。なにか世界不安が生じる裏には常に欧州がある。ゴーン問題だけではない。昨年10月から始まった金融市場の暴落といった裏にも、中国と過剰なまでに接してきた欧州の恐怖があるとみている。実際、今回の大暴落で一株当たり純資産が1倍程度だといって日本は大騒ぎしているが、ドイツ最大の銀行であるドイツ銀行の株価は0.5倍程度にまで落ち込んでいた。リーマンの次はドイツ銀行という不安は、欧州では口に出しにくい話だが現実なのだ。
●NATOの変質、米ロ中距離核全廃条約の変容を含め今年も(英国を除いたとしても)欧州の地殻変動には暇がない。財務内容のよくない南欧・中央諸国が大勢となり、独仏が揺らぎ始めている欧州では、常に政治と経済に不安が残る・・・。
●ルノーが日産に捨てられる日がいつか来るだろうというのはフランス経済界の恐怖だ。だが国家とあまりに密結合したルノーは昔日の日本の国鉄と同様、現在のままでなんとかなるような代物でもない・・・。日産や三菱とのJVの問題をうだうだ議論する前にルノーの問題をストレートに考えるべきだろうと、個人的には考えているのだが・・・。今年も欧州は迷走しそうである。

Louis Renault in 1903

ゾルゲとスターリン(永野)

●南仏にいる。まるで晩年のゴッホの世界にいるようだ。毎晩夜遅くまで酒を酌み交わし、信じられないような暑さで目覚める。目覚まし時計はいらない。部屋に住み着いている猫がベランダから侵入してきて、毎朝顔を舐めてくれる。さて朝飯でも食うか、とそんな生活である。
●朝食後にタバコを一本吸っているうちにふと思いついた。ゾルゲのことだ。処刑されるにいたるまで極秘情報を収集しながらも、ついにその情報は使われなかった。スターリンはドイツは攻めてこないと思い込んでいたからだ。今ロシアでは結構な英雄として扱われているが、何やら悲しみにたえない。
●普通の日本人からすると、極秘情報をスパイされたという意味で、あまり良い感情を抱かない人もいるだろう。しかし一人の人間としてみると、魔王のような権力を持ち、偏見と思い込み、猜疑心のとりこになったような男の部下になったばかりに、勤勉に働いた成果を台無しにされ、一人東方の地で処刑される心境というのは同情するに余りある。
●とはいえこのような悲劇は現代も変わらない。長期政権は独裁になり、為政者は孤独で耳障りの良い情報ばかりに取り囲まれる。ずる賢さを磨き上げた幹部は本質的なものを遠ざけて為政者からの飴玉が落ちてくることだけを期待している。賢さと勤勉さは、実ははるか遠い僻地に赴任する愚直な官吏や、在野で一人研究し続ける一部の数学・物理学者、詩人、音楽家の中にだけある・・・。
●人間社会のそうしたどうしようもない弊害を防ぐために、世界は多選の禁止を綱領にうたってきた。放置すればろくなことにはならない。ロシアのプーチン、中国の習近平、北朝鮮のキムジョンウン、トルコのエルドワンなどばかりではない。日本の自民党はわざわざ内規を変更してまで現在の首相に三選を許そうとしている・・・。二期やって大したことができず、長期政権の弊害が随所に出ている現政権に、三度目の正直を許す趣旨は一体なんなのか、素朴に思うのは私ばかりだろうか・・・。
●おっと電話がなった。もう友人と会う時間だ。仕事なのか趣味なのかと問われると、どちらも正しいといえる関係だ。フランス人だから政治の話を仕掛けると一晩語りつくすことになる。折角だから長期化する世界各国の政権について話をしてみることにしよう・・・。相手は無論女性だ。

カチューシャと坂の上の雲(永野)

●ロシア人はカチューシャという歌が好きだ。いい曲だとは思うが、ロシア人の愛情は並々ならない。この歌については、第二次大戦後、毎年歌手や編曲を施した曲が流行っていて、一向に飽きられる気配がない。要するに永遠の流行曲だというわけだ。従って、下手な批判は火傷のもとだと思うから、いつも疑問や質問の類はロシア人相手にはしない。
●同じように、日本には結構な比率で、司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」が好きな経済人が多い。国籍のルーツが疑わしくて、何事にも懐疑的な私のような人間からすると、戦前の子供向けの義勇伝が大人向けの絵本になった、そう思えなくもないが、こちらも面と向かって意見すると結構厄介な目に合う。確かに面白い本だとは思うが、そこまでむきになってなって賞賛することが、私にはどうしてもげせない。
●両者に共通しているのは、特殊・特異な時代の感情への郷愁だろう。私はそう考えている。ロシア人は第二次大戦のことを「大祖国戦争」などとよぶ。あの時代、ペテルブルグまで攻め込まれたけれど、最終的にベルリンまで陥落させた。他方、無尽蔵に戦争に若者を投入したから、社会の悲しみは大変に深い。死への鎮魂、命をかけた代償としての祝勝、その矛盾した感情を合わせ持って生まれてきた歌がカチューシャであろうと思う。しかしその感情が現代まで継続しているということは、社会の中に未だに昇華できない苦痛が満ちているとみるべきではないだろうか。
●さてそれでは坂の上の雲の方はどうか。 こちらは第二次大戦後に生じた、敗戦の苦痛を下地にして成り立っているのだろう。明治はまともだったから戦争に勝った。そこにはまともな日本人がいた、という基本的なテーマに、それほど狂喜するということは、ただいま現在がまともでないと言っているに近い。司馬遼太郎氏がこの本を書いてから随分時間がたっているというのに、日本社会というのは同種同様の課題を克服できていないとも言えるのではないか、私にはそう思えてくる。
●そろそろ年末である。みな幸せな気分で過去を語り、音楽に耳を傾ける時期だ。 懐かしいという感情には、現在直面している深刻な課題がある。しかし人はそのことに触れず、クリスマスツリーやおせち料理を楽しむ。矛盾しているが、一方でそれが人間が幸せに生きるということかもしれない、とも思う。今年カチューシャを聞いているロシア人たちも、実は大いなる悩みを抱えつつ、何とか生きていることに感謝しているのだろう。

ヨゼフ・ボイスのこと(永野)

●どうも現代美術は不案内です。しかしちょっとした事情でモダンアートに関する日本語の文章を英語にしなければならなくなったので、慌ててあちこち情報を集めて勉強することになりました。特に表題のヨゼフ・ボイス氏の名前は頻繁に登場したため、かなり苦心して作品を眺めてみることにいたしました。
●しかし、これは意外なのですが、結構おもしろいことを表現しているなという印象を抱きました。理解の外だったものが、何やら腹に落ちてきたと感じたのです。
●言葉で彼のすべてを表現することは、彼が特定の理解や形を超えていく何かを表現しようとしている作家ですから、あまり適当ではないのですが、あえて一言でシンプルに言えば、近代美術がある固定的な概念を前提に出来上がっているものと理解して、その前提条件や思い込みを離れた枠の外から芸術作品をとらえようとした、とでもいえるかもしれません・・・。
●ちょっと脱線しますが、科学の世界で例えていうと、アインシュタイン博士の定義した相対性理論と同質の視線の入れ替えがあるような気がします。重力や加速度などがどのような前提のもとに成り立っているのかということを明らかにして、方程式はそもそも本質的にこうなる(ちょっと難しい話になるのえ詳細は割愛します)・・・、という形の入れ替えです。力学の発展形だった物理学がそこでひっくり返り、より大きな方程式の中の一変数として改めて位置付けられる・・・。常識的で固定的な何かは小さな思い込みだったことに全員が気づき、なるほどと思う。これはおもしろい体験です。
●そんな訳で、久々に味覚の錆が落ちる体験をいたしました。ボイス氏のことですっかり賢くなったような気がしている私には、今やモダンアートや科学、文学、そして歴史にも特段の違いはなく、等しく芸術的であるように感じられて、何ともうれしい午後の時間になりました。
●しかしドイツ関係もなかなか面白いものだなと今回思ったわりに、ちょっと後ろめたい気分が残るのは、大学生時代にドイツ語の勉強を怠ったことです。興味を持っても原文を読み解けないという壁がある以上、そこは結構なハードルなので、ドイツ語に詳しい人物や英語のうまいドイツ人に頼らないといけないことになります。もっと学生時代に勉強をしておけばよかったと思うのは、永野ばかりではないでしょうね。

大陸的・儒家的な社会民主主義の時代を考える(永野)

●明治維新以後、主に江戸時代を舞台にした時代小説が日本では一番人気があります。弥次喜多さんたちが出てきそうな舞台設定に、実は日本人は一番弱い。
●太平洋戦争ででひどい目にあった司馬さんなどは、昭和が駄目だった分、明治時代が良かったのではと思ったのでしょう。しかし時代小説ブームを見る限り、江戸時代を懐かしむ人々の方が比率として高い傾向にあるとしか言えません。明治以後の、徹底的に合理性を追及する時間に疲れた日本人の本音が潜んでいるような気がしてなりません。
●同じような視線を大陸に向けてみます。習近平政権の言っていることを丹念に読んでみると、庶民の間に広がっている、毛沢東時代の「貧しくても平等だった。」、というため息に近い理想に、同調しようとしている気配があります。中華圏の文化の中心は千年以上農業にあります。農業が儒家を生み、富以上に共同体的な平等を理想とするのはごく自然な成り行きだと私は思っています。
●その点ロシアも同じです。外向きにはあっちこっち攻め込んで雷帝のように振舞っているプーチン氏ですが、離婚後は、ロシア人らしい親父ギャグが増えていて、国内で妙に人気がある一因になっていると思います。テレビを見ている側からすると、むかし畑でジャガイモを作っていた頃の、機転が利かなくておっかないけど、頼りがいのあるうちのオヤジ・・・、というような存在になっていると思います。ロシア人と話すときは、このような、大地で農作業をしている時のたとえ話が心地よいようで、遠目から眺めるとトルストイがいた帝政時代への愛着のように聞こえてきます。ソビエトの時代も含めた昔の時代のほうが、みんな貧しかったけど、平等だったなあ、という思いがあるのでしょう。
●このような貧しくても平等だったということに対する郷愁のようなものが、結構重要なものなのかもしれません。日本で江戸時代が庶民の心をいまだに射止めている理由がここにあります。行き過ぎた富や格差を生んでまで効率性を追及するのではなく、社会全体の安寧を図りたいという心でしょう。どうもこのへんが、太平洋戦争前後の歴史観に縛られた、一時代前の研究者や歴史家と意見が対立するところで、話がかみ合いません。明治新政府が考えた富国強兵策と合理的に導き出された産業資本主義が絶対正しいと考えている立場と、庶民が愛した文学作品から土着性の高い気質のようなものをくみ取っている私の立場の違いなのかもしれません。しかし、明治新政府から連綿と続く、資本主義一本やりの歴史は既に限界を迎えており、制度疲労の限界に近づいているのは間違いありません。
●2016年は、立派な職業政治家や研究所、新聞社の権威失墜の一年でありました。英国のEU離脱や米国大統領選挙について、彼らは観測と対処を誤り、現在は沈黙し続けています。シンプルに原因を考えるなら、世論を読む力がなくなったということでしょう。読むということは、統計データで数字遊びをすることではなく、人のこころを読むことだと私は考えております。
● 日本や、東アジア・ロシアといった国々に限らず、世界は今後資本主義専制の時代から、”貧しくても平等”という価値を取り入れて、社会民主主義的な傾向を帯び始めるのではないかと思います・・・。明治新政府発足以後、振り返るべきでない封建主義として退けられてきた儒家的価値観ではありますが、近代合理性の限界に近づきつつある人間を、次の時代へ誘ってくれるものではないか。私は最近そんなことを考えて、ふと江戸時代の文献を調べる日々を送っているのであります。

甲陽軍鑑写本を読み始める(永野)

●ついに東京に冬が来たようだ。雪かみぞれかわからないものが降り始めると、そう思う。
●私は冬が好きだ。できればあたり一体の雪景色がいい。見慣れた風景は白い絨毯に覆われて、そりに乗ってどこまでも滑って行けるように見える。できれば大黒屋光太夫のように、樺太から沿海州、ウラル山脈を越えて、ペテルブルクまで行きたい。雪が降っている間だけそんなことができるような気がする。
●現実的には、こういうとき、がつがつ仕事をするのは風流でない。従って午前中でやめた。夜はきっと冷えて路面も凍結してしまうだろうから、夜は暖房を焚いてよく冷えたビールを飲むのがいい。
●つまみは、国会図書館 からダウンロードしてきた「甲陽軍鑑」だ。武田軍学を春日弾正が天正13年(1585年)に口述したとされているが、江戸時代に写本されたものが収蔵されている。残念ながら20巻のうちの10巻までしかないようだ。が、現代人の読み物としては結構ハードルが高いから、よくよく咀嚼しながら読むつもりだ。
●少々脱線するが、現代の研究者が抄訳などとして出版するものは、どうも個人的に関心を持つポイントが違うので、あまり読まようにしている。忙しい人は仕方がないのだろうが、そもそも原本や写本の文字一つ一つに込められた、積年の筆圧のようなものが伝わってこなくなるのが問題だ・・・。
●とはいえ、この文献は初めから大変そうな気配である。明らかに江戸時代の文章ではない。江戸時代には丸写ししただけで、どちらかというと戦国時代でもなく、応仁の乱を含めた室町時代のにおいがする。さて最後まで読み通せるのか今から楽しみだが、挫折して、そのまま寝入ってしまうのもいい。カメのような歩みで、何年かかったとしても、この写本を写し取った人たちの大変な時間を考えれば、十分価値があるように思う。

ハンニバルとナポレオンを考える(永野)

●毎年ソニーの決算を眺めるたびに思うことがある。ローマとポエニ戦争で戦った将軍ハンニバルと、フランス革命の申し子ナポレオンのことだ。
●両者に共通するのは革新的な戦闘スタイルで歴史を一変させるような大勝利を挙げたにも関わらず、最終的に敵方に同様の戦術をとられて敗北していく点だ。ハンニバルは得意の密集戦法をローマの将軍スキピオに完全に模倣され、ザマの戦いでは完膚なきまでに敗北する。ナポレオンの場合、プロイセンの参謀本部に完全に本質を見抜かれた結果、最終的にモスクワ遠征以後のほぼすてべての戦争で敗北を喫する。
●ソニーが歴史上の偉人であるこの二人に匹敵するかどうかはわからない。しかし、ある時間軸の中で世界のエレクトロニクス市場を席巻したのは事実だ。またウオークマンとプレイステーション以後、世界の消費者を感動させる商品を一度も出せぬまま、現在に至っているのも事実だ。消費者の夢を実現する商品を出すことよりも、会社のリストラをするというが、5年も10年もリストラを恒常的にし続けているのだから、もうソニーから革新的な商品が登場することはないだろう。結論から言えば、革新性の戦いという意味では既に勝負はついているのだ。
●ナポレオンは最終的に南海の孤島に幽閉され、ひとり息を引き取る。しかしその戦術はプロイセンを経てドイツ参謀本部に継承され、統合的な理論となって明治新政府になった日本の将官たちの勉強する教材となる。コモディティとして誰でも模倣・学習できる対象となったのだから歴史的な価値はあるということだ。しかしだからといって、現代で通用するということではない。既に古新聞で、所詮事例研究の材料でしかない。
●ソニーの成功物語も同様の終わり方になるのだろうかと、ふと考える。リストラ、リストラと、日蓮上人のように毎年決算説明会で声を張り上げる経営者は、以前とは異なり小粒な雇われマダムだから、そんな本質的な疑問を投げかける気もしない。有価証券報告書にも決算短信にも書かれていないが、個人的に知りたいのは、なぜ革新性を失い、なぜその復活を図ろうとしないのか、という二点のみである。

オー・ヘンリーの短編を味わう(永野)

●休みの晩は短編小説に限る。オー・ヘンリーの作品は、生きている時間に、さまざまな経験を経た著者のバックグラウンドも見えてきて、読んでいて楽しい。長いから深いということはなく、また反面短いから浅いということはないと、改めて教えてくれる作家だ。
●”罪と覚悟(原題:A Retrieved Reformation)”という作品がある。主人公ジミイ・ヴァレンタインは刑務所を出てすぐに、得意の道具を使って、銀行の金庫破りをする。金庫の破り方の癖を見抜いたベン・プライスは、すぐさまそれがヴァレンタインの手によるものだと見抜き、逃走したヴァレンタインを追いかける。
●一方アーカンソー州の田舎の町エルモアに、一人の美しい姿の娘の姿を認め、靴屋をはじめたヴァレンタインは、その娘と婚約するところまでいきつく。しかしある日、その娘の親戚の少女が金庫に閉じ込められる事件がおきる。ヴァレンタインは、自分の素性がばれるのも恐れず、金庫破りの技を使って、少女を救う。その様をつぶさに見ていたベン・プライスは、その靴屋が間違いなくヴァレンタイン自身であると見抜くが、そのまま無罪放免とする。そういう物語である。
●銀行という場面設定は、作者のオー・ヘンリー自身が銀行の出納係だったということとどこか重なる。また銀行のカネを横領したとの罪で、刑務所に服役したことがある彼自身の姿が、ヴァレンタインの姿に大きく反映しているのだろう。ヴァレンタインの姿には、オー・ヘンリー自身が、ある女性を愛し、そのために幸せに行きたいと願っていたというように理解できる。長すぎず、また典型的すぎてわざとらしい悪人も善人もなく、小さな罪を犯してしまう、小さな人間の幸せを描こうとしている。等身大で簡潔なタッチであるが故に、むしろ大掛かりな道具だての作品よりも印象深い。さすがオー・ヘンリーだと思う。
●現実世界でいろいろな罪を犯しながら、それでいて実はただ平凡で小さな幸せを願っていただけのオー・ヘンリーは、刑務所の中である日短編小説を書き始める。それは虚栄のためでも、金満家になることを目論んだものではなかっただろう。一人の愛した女性と、その娘とのささやかな生活、そして罪を犯さざるを得ない現実世界の自分自身を、正確に描き出すことだったのではないだろうか。短編小説にこめられたエッセンスを味わいながら、私はふとヘンリーのそんな心の動きを感じた。

斬首刑のなくなった現代の生と死を考える(永野)

●斬首刑という刑は現在の社会にはない。しかし過去を眺めれば、日本だけでなく欧州などでも歴史的に存在したものだ。文化圏が違うにもかかわらず、どの国においても首切り役人がおり、それをじっと見つめる観客がいた。目的は罪の精算として見せしめにするということもかねているのだ。
●人間は首を取るということを象徴的に扱っている。県知事や市長のことを首長というし、組織のリーダーのことを首魁と呼ぶ。また免職のことを首切りということもある。それを公然と大衆に示すことが、反乱の鎮撫には有効だったということだろう。残酷だが、事実には違いない。
●日本において政府が最後に斬首刑を実施したのは、明治早々期の江藤新平に対するものである。既に江戸時代を終了して、新しい司法制度も出来つつある中で、佐賀の乱の責任者である江藤に対して、当時の内務卿・大久保利通は敢えて斬首刑を適用する。不平士族たちの不満を押さえ込むには、残虐性は高くてもこの措置が一番効果があると考えたのだろう。その時代に効果がどれほどあったのかは実際のところよくわからないが、現代人からみてもその迫力のすさまじさはひしひしと伝わってくる。
●現在の世界は、長い歴史を経て、残虐性というものに蓋をすることを良しとしてきた。言葉の上だけで、首にするとかしないとか言ってみても、実際に首を打ち落とされることはない。会社を辞めたければやめればよいし、犯罪を犯せば刑務所で服役すればいいことになっている。従って、世の中でおきていることはすべて伝聞で済まされる。伝聞でしかしらないにも関わらず、人は簡単に、命がけでとか、首を掛けてという。非常に言葉が軽々しくなっているように思う。
●社会は今後ますます仮想現実の度合いを増すだろう。現代から斬首刑が消滅したように、目を背けたくなる現実から人はどんどん遠ざかろうとするに違いない。しかし目を背けても現実から完全に逃避できるわけではない。どれほど世の中が変わっても、人が死ぬという現実は変えようがない。過去の人々は、斬首刑をみて敗北と死を徹底的に教え込まれたが、現代人は自分が直面するまで、恐怖感はあっても、死ぬことの意味すら知らない。裏返せば、生きている、或いは生きるという意味が、現代人は本当にわかっていないのではないだろうかと、最近よく考えるようになった。

Shinpei Eto

みんなの党への失望はカネの問題ではない(永野)

●みんなの党への社会の批判はどちらでもよいと私は思っている。しかし私は別の理由で失望している。こころざしの問題である。そもそもDHC会長のコメントなどを熟読すればわかることだが、当の会長自身もみんなの党代表の変節そのものを問題視している。こころざしの低い政治家への献金は意味がないと判断したのだろう。実際、みんなの党のホームページに記載されている弁明文をみても、政治資金規正法や裁判に発展した場合を想定したコメントばかりで、こころざしそのものを糾弾されていることについて、何の答弁もない。私自身も大いに失望した。
●極論するとお金の問題などどちらでもよい。結局たいした社会変革の欲求もなく、政治資金規正法違反の報道に逃げ回り、党首のポジションに固執するだけの存在ではないかと映る。いっそのこと、社会の批判・党内の批判・国会内部の批判をすべて引き受けても、こころざし自身は変わらないと説明したほうがよい。このことがどうやら当の本人も、政党所属の政治家もわかっていないようだ。
●私は前々回の選挙でみんなの党に投票したが、DHC会長の言うとおり、そのこころざしの変節が気になり、前回選挙では投票しなかった。しかし今回の出来事で、その変節に対する懸念がさらに悪化して、ただの不快感になった。もちろん所属の政治家には一切投票するつもりはないが、代表個人の腹をみてしまった以上、いかなる政治行動にも信頼はもてない・・・。
●マスコミは政治とカネの問題と、議論を簡単に処理しようとしているが、本質はこころざしの低さそのものである。DHC会長と同様の観点で、多くの人々が深い失望と不快感を味わっているのではないか。