グローバルマネーと戦争の本質(東宮)

●債券や株式、為替、商品を含めてマーケットでの選択肢は二つしかありません。売るか買うかです。戦争で前進するか退却するしかいないのと同じです。どちらが勝ち馬かを見抜けば、簡単に勝てそうなものですが、このゼロサムゲームは必ず勝者と敗者を出す、なかなか難しい戦いです。
●長年この戦いをモニターで眺めてきましたが、ある時から、歴史上の大きな戦闘シーンと同じだなと思えるようになりました。 本当に意思を持って勝負をするグループは、関ケ原において徳川家康と石田・大谷グループが競い合っていたのと同じで、ほぼ2つの勢力に収れんします。どちらが勝つかをキョロキョロ模様眺めしている勢力が、実は比率としては90%です。皆勝ちそうな方に味方することだけを考えているとみるべきなのです。
●今、本屋に並んでいるハウツー本は詰まるところ、このどちらが勝ちそうかを見抜く方法を解説したものです。小難しく移動平均などの指標を持ち出してああでもないこうでもないと言っていますが、実はどの理屈も確率的に60%以下にすぎません。要するにほとんど五分五分なので、全く逆のことをしても40%程度勝つ可能性があるということです。数字遊びは流れをつかむ手段の一つですが、実は頼りすぎると負け続ける理由にもなります。
●そういう意味で、私は指標には頼らずに、勝敗をもっと平たく見極めようとするようになりました。 まずは兵力差ボリューム)です。片方が圧倒的にボリュームが大きいならば、少ない側につけば負けるに決まっています。次に、味方の裏切りです。これは、同じように買い方で参戦していたはずの味方が、あるタイミングで突然売り方に変わることを指します。トレンドが変わったとカッコよくいう人がいますが、もうちょっとミクロにみると、その瞬間兵力の逆転現象が起きて、味方が総崩れになっているとみるべきです。この現象が見えたら、無理に頑張らずに素早く退却しないと、傷が深くなるばかりで、下手をすると命を失いかねません。かつて織田信長浅井長政の裏切りを知って一目散に逃げるシーンを本で読んで、随分卑怯だなと思ったものですが、戦争の極意で、そういうときは逃げるしかありません。3つ目は、拮抗状態に我慢できずに、先手で切り込み突撃をかけて、初戦で勝利したはいいが深追いとなり、却って深手を負って退却する羽目になるという事実が見えるときです。所謂返り討ちで、これが起きると、どんなに兵員がいようとも、みな精神的に不安定になるので、一緒に逃げてしまいます。豊臣秀吉柴田勝家が戦った賤ケ岳の戦いにも出てくる場面ですが、”先に動いたほうが負け”というルールは往々にして、現代の金融市場にも当てはまる理屈です。勢力均衡で動けないときは、武田信玄上杉謙信と同様に、川中島を挟んで下手に動かないということが肝要なのでしょう。
●しかし証券市場に何年も生きてきて、難しいことも沢山勉強しましたが、こと現実的な戦いになると、このような戦国時代の教えの方がはるかに役に立つというのが、とても不思議でなりません。現在目の前で起きているトランプ現象とでもいうべき異常な株価高騰も、勉強熱心なアナリストは大方予想を外しましたが、圧倒的な北米中小型株への資金流入を眺めていた、戦(いくさ)にたけた筋は、迷わず買い方に転じていきました・・・。
●2016年は、以前にもまして、評論家やアナリスト、研究者たちが世の中に増えた割に、無能ぶりをさらけ出した一年でした。 トランプが大統領になったら大変だと言っていたこの手の人々が、今になって、トランポノミクス万歳などと言っています。戦国時代に例えれば、戦争のことを知らないお公家様たちのようなもので、そのことが今年はっきりと目に見える形で現れたのだと思います。やはり、マーケットでの戦いの本質というべきものが勝敗を決めるのだと、反面私は確信をもった一年でもありました。下手な指南書を読むよりも、甲陽軍鑑を読むほうがはるかに役に立つなと、今年も改めて考えた一年でもありました。

東宮大悟の初夢ものがたり(東宮)

●正月に実家に帰ってまいりました。神奈川県の逗子です。実家といっても両親が引退後に隠棲している場所なのでこれといった愛着があるわけではありません。兄も姉も立派に独り立ちして家庭を持っているので、問題児だけが実家に里帰りする、そのようなところです。
●しかしこの逗子、なかなか風光明媚な場所です。初日の出を拝んだりするには最適な場所ではないでしょうか。新しい一年の始まりにおいて、神々しい太陽の光を浴びて何かインスピレーションを与えられる気がしてきます。
●幸せ気分一杯で昨晩は布団に入りました。恒例の初夢を期待してのことです。中学生の頃から初夢を日記にメモしてきて、現在まで15年程度継続してきているのですが、さて今年は一体どんな未来を予見してくれるのかわくわくしながら枕に頭をのせました。
●今年の夢に登場したのは、一人の老人です。まったく心当たりのない方です。きちんと白髪を七三わけにして、ひげも処理されています。白いカーディガンに茶色のスラックスをはいたその老人は、私に向かって何かを語りかけようとしています。エミリー・ブロンテの嵐が丘に登場する荒野を連想させる場所に一人立つ老人の声は非常に微かで、私にはよく聞き取れません。仕方がないので老人に近づいていくと、老人は私の耳に口を寄せ。小何度か同じ言葉を繰り返しました。
●”उत्तर के बड़े त्रिकोण का पत्थर कदम, और अंतर्निहित शास्त्रों निहारना”。このヒンディー語を直訳すると”ギャンツェ北方の大きな三角の石を動かし、その下にある経典を見ろ”という意味になります。外大の専修でこの言語をなんとなく選択した私だからなのかどうかわかりませんが、非常に意味深です。初夢でこのようなことを聴かされて、また起床後も記憶が鮮明に残っていることは私の場合極めてまれです。あまりに気になるので、本日の午前中はそのギャンツェという名前の場所をあちこち調べることにしました。
●ギャンツェというのは、チベット西部の小さな町の名前でした。グーグル・マップで調べると、すべての地名が漢字で表記されており、詳細が不明です。老人のいう経典にたどり着くのは至難の業ではないかと現時点では考えざるを得ないようです。よくわからないことばかりなのですが、老人が一体何者で、ギャンツェの三角の石の下にあるという経典について、年明け6日あたりに早速諸方面の力を借りて調べてみることにしました。
●これまでもも不思議な初夢を見続けてきた私ですが、今年はまたさらに難しい謎解きが必要になりそうです。交通事故の予告、死後5年を経過した老婆からのメッセージなどなど、とても日常仕事をともにしている仲間には信じてもらえそうになり夢ばかりなのですが、つどその夢の意味の深さを知ることにつながっています。今回のメッセージについても、一年以上の時間を掛けて調べないといけないのではないか。そんな風に考えています。

奇人・大川周明とイスラム教を考える(東宮)

●大川周明といえば東京裁判で東条英機の頭をたたく映像で有名です。民間人で唯一A級戦犯として起訴されるこの人物については、この裁判映像での奇行が原因で、深く理解しようという意欲を持てなかったのですが、最近機会があって何冊か著作を読んで勉強不足だったなと深く反省いたしました。
●特に面白いと思ったのは、戦前の”日本精神研究”とか”米英東亜侵略史”などという著名な作品ではなく、戦後のイスラム教に関する本です。1950年代のコーランの全訳やマホメット伝などの本をまとめるこの人物の着想というのは、戦前のアジア主義の印象を超えるものがあります。
●特にマホメット伝などをみますと、大川が欧米イスラム教国でも東アジアの仏教国でもない、イスラム教の国々が、対立することなく、相互に尊重・恩恵を得てきた歴史に着目していることがわかります。戦前日本が目指した大東亜共栄圏の失敗とその後目指すべき姿をイスラム教国に夢見ていたのだということがわかります。非常に興味深い着眼点です。
●多分に戦前のアジア主義者として色眼鏡で見てしまう思想家ですが、現代でも紛争の絶えることのない東アジア或いは東南アジア地域において、いかに共存共栄を図るべきなのかということを真摯に考えていたという点で、ある意味尊敬に値する人物ではないかと思います。現実世界で起きている、経済や領土問題で角を突き合わせるだけの何やら功利主義的な関係を超えて、大川のような思想的な広がりで物事を見るという視点があってもいいいのではないかとふと考えてしまいました。

テネシー州ナッシュビル出身の素敵な女性に贈る愚者なりの愛の言葉(阿房)

●ボクにも愛を語りたい女性がいます。ちょっと強そうに見えてとても繊細な人です。テネシーのナッシュビルに住んでいました。数多くある米国の州と都市の名前をとっさに思い出せないボクは、何度も彼女に、その地名を聞きかえしました。悪意があるわけではありません。要するにボクがそれほど賢くない頭脳の持ち主だということだろうと思います。でも彼女はそういうボクに心地よい気持ちは抱かなかったのだろうと思います。
●また、こんなこともありました。彼女が大切にしている友人の結婚式に招かれたときのことです。ロングアイランドの海沿いのきれいなレストランでした。うっかり遅刻しそうになったボクは、大慌てでその場所に向かいましたが、美しい彼女のドレス姿に一度で魅了されたにもかかわらず、きれいだねという一言をいえませんでした。彼女をすっかり失望させてしまいました。
●そんなことがたくさんありました。多分ボクが気づいたのはごくごく一部で、もっとたくさんの過ちを犯したのだろうと思います。鈍感なボクはそういうことに一切気がつかず、いつもいびきをかいて寝てしまいました。そういうわけで彼女をすっかり呆れさせてしまいました。ボク自身が愚か者なので、仕方がないといえば仕方がない出来事でした。努力してもたいしたことはできなかっただろうし、これからもそういう過ちを繰り返さないという保証はどこにもありませんから。
●ただそういうボクにも彼女への気持ちはあります。賢さとか愚かさとかそういうものとは別次元ですが、今だからこそまたとても強く存在しています。またボクのところに戻ってきてくれる可能性は殆どないのですが、テネシー州とナッシュビルという言葉を何回かノートに書いてもみました。これで忘れることはないだろうという願いを込めたのです。
●そんなことを考えながら今日も電車に乗っていました。一応仕事をしている僕としてはそういう日常があるのです。テネシー・・・、ナッシュビル・・・と何回かつぶやいてみて彼女の姿を思い浮かべてみました。何か彼女のつけていた香水の香りがにおうようで、よい気分になりました。
●彼女はやっはり去っていくのかもしれません。ボクもボクなりにできる範囲で人生で努力をしていくしかありません。彼女の気持ちを尊重したいし、いい友達になれるように努力もしたい。でも万分の一の可能性もないけれど、戻ってきてくれたら、たいして変わり映えもしないかもしれないけれど、ボクはボクなりに彼女を世界で一番愛していると、素敵なレストランで告白してみたいと思っています。もちろんロングアイランドよりももっと素敵で眺めのよい場所で・・。

究極のアナクロニズムは限りなく神聖かつ不可侵だと思ってしまう私は単なるへそ曲がりである(阿房)

●ちょっとへそ曲がりの私からすると内閣支持率が60%もあるような体制が本当に正しいことが行えるのかと疑ってしまう部分があります。新首相がどうのこうのとかそういうことではなく、刹那的な人気取りばかり目指そすることになって、本義を喪失しそうな気がするからです。具体的な根拠のない人気の理由は一体何なのでしょうか。
●ちょっと視線を変えてみましょう。15世紀のフィレンツェにおいてサヴォナローラという人物がいました。ドミニコ会の修道士で、メディチ家の支配が終わったあとのフィレンツェにおいて、神権政治を行った人物です。贅沢を戒め、メディチ家の一極支配を激しく批判し、ついには政治を牛耳るに至ります。この時点での市民の支持率はよくわかりませんが圧倒的なものであったようです。しかし長い清貧生活は市民の大多数に再び飽きられることになったという事情と、ローマ教皇を批判するという危険行動の結果として、最終的に処刑という形で政権は終焉を迎えます。
●サヴォナローラが目指したものは一体なんだったのでしょうか。それはたぶん神の国の実現ということだったでしょう。奢侈や金満資産家だけにあてこする政治ではなく、神の国の法に基づいて統治を行うというものです。一方市民が期待したものはなんだったのでしょうか。それは単にメディチ家の失政とサヴォナローラの預言・予知能力への期待だったというにすぎないものでした。要するに過激な神権政治と、日常的な庶民感覚が奇妙に一致した瞬間に支持率が高まり、本質的に根幹が異なるという理由で支持はあっという間に地に落ちて反発に転化した、ということなのでしょう。
●サヴォナローラという人の評価は一般的にある種のオカルト、アナクロニズムとして扱われることが一般的です。庶民も教皇も敵に回してまで理想的なキリスト教国を目指すという姿勢自体、反逆・反動の象徴としてとらえられるからです。ただそこまで本質にこだわる純粋さと理想の高さというのは、政治家としてというよりも人間としてある意味共感する部分もあります。宿命的に衆愚の色を持たざるを得ない政治という仕組みの中で、圧迫されつつ反動を維持するというのは並々ならぬエネルギーが必要であるからです。
●個人的には、歴史物語を作る体制が、きれいに善と悪を峻別し、自分たちの論理にふさわしくないものを悪と断定していくプロセスというものを強く意識する傾向があります。ですから、こうした反動的でアナクロな存在のほうにむしろ共感を持つ部分があります。体制や民衆に対して最後まで自説を曲げない強さ、傲慢といわれてもへこたれない頑迷さというようなものです。徹頭徹尾迎合的で、にこやかな笑顔の中に思想のかけらも感じられないような人物を、私は愛するすべをしりません。憎まれても本願を達成しようとする姿勢というものに、限りない愛着を感じるのです。
●今回の新首相・新政権は一体何を目指そうとしているのでしょうか。マニフェストに書いてあることを実現したというわけでもなく、ただクリーンなイメージに変わったとか、その程度のものでしょう。事業仕分けとかいうものを実況中継して見せたりして透明性をアピールするのは結構なことなのでしょうが、大切なのは成果そのものであるはずです。自民とか民主とかそういうつまらない仕組み論などに特別な関心のない私からすると、悪の権化と指弾されてきた田中角栄氏などのほうが、アナクロといわれようが愛着と尊敬を感じるのです。小粒できれいかもしれない政治家よりも、本願を見事に達成しようとする悪者のほうに魅力を感じてしまうのは、私が単なるへそ曲がりであるからでしょう。

赤毛のアンとマシュー・カスパート(東宮)

ルーシー・モンゴメリーの赤毛のアンはわたくしにとっても大好きな作品である。女性の愛好家が比較的多いように思うが、男性であるわたくしの中でも子供時代から現在に至るまで何がしかの魅力を与え続けている。感受性豊かで知性的なアンという女性の魅力が最も大きい要因だが、プリンス・エドワード島の美しい景観への憧れや主人公を取り巻く脇役の魅力というものも非常に大きいように思う。
●特にアンの義理の父マシュー・カスバートの朴訥・篤実な人物像には、国の違いを意識させない魅力がある。これは、作者であるモンゴメリー自身の価値観が影響を与えているところも多分にあるが、実際にプリンス・エドワード島の景観に触れてみると、自然環境の飾らない美しさがこの暖かい人物像を生み出したのではとも思う。人間の根幹に普遍的に訴える何か魅力的な匂いが、この人物像にはあるように思う所以である。
●わたくしは小学校の頃この本を村岡花子氏の訳で読んだせいもあるが、昨今、より新鮮な何かを求めて原書で読んでみることがある。特段難解な単語もなく外国人にも気軽に読める楽しさがこの原書にはあるが、勿論この島とマシュー・カスパートの懐かしい匂いもふんだんにある。時に、功利的なビジネスの現場で疲れ果てた気分になるわたくしには、根源的に滋養を与えてくれる存在でもある。単に英語の学習という目的でも構わないが、生きるということにある疲労を感じた大人にも十分に何かを与えてくれるという意味で、おすすめの本であることは間違いない。

理不尽な変節~造反議員の行方(東宮)

●郵政民営化法案に反対票を投じた議員の去就に注目をしている。結果として現在の自民党が大勝したという状況にどのように反応するのかということが多少気になっているからだが、これはそもそも反対票を投じた根本的な理由がどこにあったのかということを示すものでもあり、政治家の資質を値踏みするよい機会でもあるからである。また、反対し続けることが自説・自案であると宣言した以上、内容に変化の生じない法案に最後まで反対の意思を表明し続けることができるかどうかは、政治家という以上に信用に値する人物かどうかということを判断するよい材料でもあるのだ。
●そういう意味では、この議員たちの選挙後の活動には大いに失望させられる。昨日の野田聖子議員の会見などを聞いていると、凡そ意味不明である。選挙の結果から国民の総意が法案可決であると自ら定義し、賛成の立場に変節することを表明するというのはあまりにも理不尽である。自説・自案を貫く基本的な姿勢はどこにあるのか極めて疑わしい。想像の域を出ないが、自分たちを資金面などで支援してくれる団体などの意見が、法案成立はやむなしとの状況判断に傾き、結果として成立以後に便宜を図るほうが意味ありであるとでも、囁かれた結果であるようにも見える。
●将来が見えないという状況は万人に共通の前提条件である。その中で決断を行うということに責任を持つのは社会人であれば至極当然の論理である。その観点からすれば、状況が変化したからといって、前言撤回という節操のない行動パターンをとるのはあまりに無責任である。更に、自説とまで主張した論理には根拠らしきものはなく、実質上支援団体の風の吹き加減に身を任せるような人物には、信用できる材料は何一つないといっていい。野田聖子議員がかつて郵政大臣だった頃、将来に多少の期待感を持っていたわたくしには、何か大きな失望感を抱く契機となったのは間違いない。

ユーラシア・ブックレットを読む(東宮)

●堀江満智という人の「ウラジオストクの日本人街」というブックレットを読んでみた。このブックレットはユーラシア研究所という団体のものである。ロシア関係の資料を数多く出している組織で、以前にも何冊か読んでみたことがある。日頃日本のマスメディアが触れない日露関係やロシア事情などが書かれていてなかなか興味深いものがある。60頁程度の薄いパンフレットのような読み物だが、希少性から考えて600円という値段はそれほど高いものではないだろうと思う。
●内容的には、日本の明治維新前後からロシア革命前後まで続く、ウラジオストックにあった日本人街に関するものである。著者自身の祖父の実話を基に記述されているため、内容的にもなかなかリアルで面白い。特にシベリア出兵前後、革命政府が安定しない時期における、ウラジオストックの不安定な雰囲気などが、手紙で紹介されているのはなかなか読み応えがある。約80年前の1922年に日本軍が撤退するまで続くこの日本人街の存在は、北方4島ばかりに目が向く大戦後の日本の中では、既に歴史に埋もれた一ページになっている感があるが、その場所で生きた人々の肉声を耳にすることで何か不思議にロマンチックな気分にもなる。
●普段の生活ではマスメディアの情報ばかりに頼って生きている部分はあるが、たまにはこのような小冊子で未知の事情に接してみるのも悪くないように思う。特に冷戦という時代に吹き荒れたイデオロギー論争が消失し、コンテキストが右に向いているのか左に向いているのかいちいち意識をすることなく、冷静に事実を極めることができるようになっている現代では、日露関係についてこのような出版物を読んでみるのは何やら新鮮さもある。わたくし自身、このブックレットには今後も何回か世話になろうと思った次第である。


ポーランドという国を考える(東宮)

●ハンガリーの歴史家ペーター・ゴシュトニーの著書「スターリンの外人部隊」は、決して卓越した物語作家の手による作品ではないので、読んでいて心躍るという類のものではないが、冷戦終結後の世界で改めて東西関係を考えるときには、その歴史的価値は非常に大きいといえる。特に第二次世界大戦下において着々とスターリンによって進められた、旧東欧圏の衛星化について、冷戦後に明らかとなった史実を丹念に調査している点からも、貴重な資料になっているといえる。
●この中で際立って印象深いのはポーランドという国の運命である。この国は、当時の超大国である独ソ間に位置する地域であるが故に、独ソ戦の開戦とともに一時的に国家としての機能を停止する。故に国家としての再興を図ることを目的に、ロンドンでの亡命政府に所属する組織と、主として共産党関係者を中心としたソ連側組織に分かれたものの、連合国側の一員として大戦に参画し数多くの犠牲を払う。最終的に東部戦線での勝利者であるソ連とともにベルリンに突入した東側部隊が首班となり現在のポーランドが出来上がることになるのだが、西側でノルマンディー上陸作戦にも従事した西側の亡命政府関係者20万人はその殆どが共産化した祖国への帰還を果たすことなく、英国・カナダ・オーストラリアに永住する道を選ぶことになるのである。
●国という単位で世界地図の中で改めて民族の旗を掲げることができたのは兎も角、東側の衛星国家に自動的に組み込まれる結果になるとは、当時のポーランド人は考えていなかっただろう。加えて、東部戦線で協力してワルシャワ解放を果たしてくれたソ連という国が、一方でカチンの森事件など、ポーランドの弱体化のために大量の将校の殺戮を行っていたという事実も十分に知られていなかったはずである。大国に挟まれた地域であるが故の運命ではあるが、悲しみに充ちた歴史でもある。
●わたくしは時にカナダやオーストラリア出身のビジネスマンと接点をもつことがある。その中には、マジョリティーではないにせよ、ポーランド系を思わせる名前をもつ人物もいる。多くの場合名刺を交換するだけで終わりになるが、年末の挨拶状リストを整理する際、その名前を見て彼らの歴史についてふと想いをめぐらせることがある。国家間の諸問題を合理的に考えたいという信条を持っているわたくしではあるが、この国の歴史に対してはやや感傷的な気分になる。この国がショパンを生み出した音楽王国であることも一因であるのかもしれないが、歴史的背景は尚大きい原因である。


村上春樹氏唯一の存在感(東宮)

村上春樹氏の本は特に意味があるわけではないが概ね読んだことがあるものばかりだ。ただ、記憶に残る一冊をあげるとすればこの「ノルウェイの森」以外にはないといっていい。その他の作品も興味深いものもあるが、村上氏自身の筆の圧力と本質的な存在の重みが感じられるのはこの作品だけである。この本を書くためにこの作家は作品を書き続けてきたのではないかと素直に必然性を認められるような気がするのである。
●この作品に限らず村上氏の作品に登場する主人公の多くは「ぼく」という一人称で登場する。しかしその姿は必ずといっていいほど透明であり、また限りなく喪失感に満ちている。感情を移入する対象を永遠に奪われたように、この主人公の前に登場する人物やモノには、主人公が投影する如何なる情熱も感じられない。このぼくと名乗る主人公には、何か静謐な部屋で果物を写生する静かな画学生のような印象がある。
●しかし、このぼくという存在の根本的な根拠とでもいうべきものは、このノルウエイの森という作品の中にはある。20歳の時の恋人との時間、そして恋人を失ってから無目的に流離う主人公の姿の中には、本質的に作品を書こうとする本質的な人間の根拠とでもいうべき存在感がある。冒頭でビートルズのノルウエイの森を聞きながら、過去に存在理由を求めるように、悲しみに満ちた記憶にメスを入れる姿には、逆に喪失感の中に閉じこもってきたこの作家の長い空白期間を感じさせるものがある。長い作家生活の中でこの作品を書き上げることを秘めた目標にして、この作家は生きてきたのではないかと思う所以である。
●作品について知るとき、わたくしはその著者の本質的な根拠とでも言うべきものがいつも気にかかる。わたくしが村上氏の作品を読んだのは高校生の頃だったと思うが、それまで単にちょっと奇抜な構成で作品を書く人だという程度しか認識していなかった。この作品を読んだときに、初めてこの作家のダルマに目が入ったようなに思う。この作家について知りたいときはこの作品を読むだけでいいという一冊があるとすれば、村上春樹氏の場合このノルウエイの森以外にはないと思うのはそんな理由からである。