「満州と自民党」(新潮新書)を読む(木羅)

●久々に新橋のとある会社を訪問した後3時間ほど余裕時間ができた。外で冷たい雨に打たれるのも愉快ではなく、また勤勉にこなす義務のある至急の仕事も特にないので、喫茶店で本を一冊読むことにした。最寄の書店で新書を購入し、コーヒーショップのソファーで煙草をのみながらゆっくりと読んだ。「満州と自民党」(新潮新書)という題名の本である。率直に言って悪文であることや、主張のキーポイントがまことに掴み難い構成となっていることには少々辟易したが、反面で論旨を深追いせず短時間で読了することができるという思いがけぬ長所もあった。
●内容的には、戦前・戦中期に満州において統制経済を志した岸信介など満州人脈に関わる人々が、敗戦後の日本で同様の仕組みを構築し、55年体制を築き上げていったことを中心に据えている。従って時間軸として前半部分では満州でのエピソード、後半部分では現在の自民党の姿を形作る原因となった保守合同の経緯などが描かれている。ただ描き方として、個別人物の印象的エピソードや雑学めいた周辺情報を多く用いすぎたが故に、統制経済の骨格や保守合同を目指した背景などを合理的に説明するコンテキストがきちんと構築できていないのである。具沢山だが、メインディッシュの味付けに手を抜いた疑いが大いにあるといっていい。
●否定的な感想ばかりを述べたが、悪い気分だけというわけでもない。憂鬱な午後の時間からわたくしを解放し、戦中の満州人脈の面々についていろいろに思い描く時間を与えてくれたという意味では少々の感謝の念もあっていいだろう。エピソード群が多いという特性によるものだろうが、二杯の焙煎珈琲の苦味と同様、心地よい印象の残像のようなものが多少ある。特に若手官僚として大陸での経済運営に胸膨らませる岸信介たちの姿には、現在のわたくしの心境に多少通じる部分もある。決してお奨めの部類には入らない本だが、効用は人により各種ありうるという意味で、単なる駄作とも言い難い著作である。

巨匠ルキーノ・ヴィスコンティを観る(木羅)

●負のスパイラルという言葉がある。マイナスがマイナスを呼び加速度的に状況が悪化する様を表したものである。コンテキストとして、政治・経済面で使われるケースが多いが、一般人の生活の中にも多々ある。ひとつのボタンのかけ違いが次の災いを招き、解決不能なレベルまで問題が混沌とすることである。問題点の発端まで遡り問題解決を図ろうとする努力すら不毛となったとき、最終解決の手段は終末的なものとならざるをえない。
●そんなやや抽象めいた感想を抱かせる作品にルキーノ・ヴィスコンティ監督の作品「郵便配達は二度ベルを鳴らす」がある。イタリア・ポー河沿いのレストランを夫と営むジョヴァンナは、ある日店にふらりと現れた男ジーノに魅せられる。程なくのっぴきならぬ関係に陥ったふたりは、自由に愛し合える環境を築くために、夫を自動車事故に見せかけて殺害する。が、思いがけず罪悪の意識にさいなまれるジーノと、淡々とレストランを経営し続けようとするジョヴァンナの間にはやがて溝が生まれ、お互いに傷付け合い、終にはかつて殺害の手段として採用した自動車事故に自ら遭遇する悲劇を招くことになる。
●単に負の連鎖構造を因果応報として描き出すのではなく、社会情勢や原罪としての欲望というものに焦点を当て、不可避で必然的なスパイラルを表現している作品である。意図した結末ではないが、そうならざるを得ない悲しみが描かれているのである。表層的な理解を超えて、どろりとした深層的な欲望や感性を描きこもうとするヴィスコンティらしい作品で、何か深い感銘を受ける。今晩久しぶりにこの作品を見たのは単なる偶然だが、いろいろな社会の利害関係に翻弄されているわたくし自身の姿を逆にあぶりだされているような印象を持った。三十代後半を迎え可逆的な欲望に揺れるわたくしには、何かの必然でこの映画を観ているようにすら思えてならないのである。秋から冬にかけてのこの時節には、やや深層に響くこのような映画を観てみるのも悪くない。

枕辺にて歴史書とともにある夜~「独ソ戦全史」を読む(木羅)

●最近寝る前に必ず戦争の本を読んでいる。特に理由はないが60年という時間が経過したところで、戦後生まれなりに総括してみたいというような気分があるからだ。特に日本という国に拘らず、ドイツや旧東欧圏の敗戦国側の事情や、冷戦終結とともにプレゼンスの低下した旧ソ連地域についてもあれこれと情報を入手するようにしている。これは日本という国の感傷めいた記憶だけを頼りにするのは少々偏りを生じる危険があると考えているからである。戦後の文壇関係者やマスメディアのコンテキストだけを入手していても本当の姿は見えないのではないかという自分なりの考え方がそこにはある。
●ただ戦争の事情について詳らかに事実を知ろうとする作業には少々辟易する部分もある。いつどこで何があったのかということについて事実を重視するあまり、読み物として楽しみを得ることが極めて難しいからである。淡々とソ連第XX軍がスモレンスクでドイツ親衛XX軍と交戦・・・という具合に文章を展開されると、地図や軍事用語集などを見ながら、ほほうそんなことになっていたのかと知るまでに随分と骨が折れる。小説本のように一日に数百ページ読み進めるのは精神的に苦痛だから、寝る前に数十ページ程度だけ読むようにしている。苦痛は少々で、着実な前進があるのと、疲労感は睡眠とともに雲散霧消するというメリットもある。
●今日紹介するのは、ここ10日ほどかけて読んだ「詳解 独ソ戦全史」である。主として東部戦線におけるドイツと旧ソ連の戦いを調査・執筆した作品だが、例に漏れず淡々と連続する事実の描写にやや根気が必要な本である。しかし、旧ソ連側の公文書を基礎資料に加えているため、定説を覆す新事実などもありなかなか面白い部分もある。特にワルシャワ蜂起において、ソ連軍が故意に進軍を停止しポーランド蜂起軍を見殺しにしたという定説に対して、実際には戦術上の理由から進軍自身が不可能であったという事実を記している点などなかなか興味深い。東西関係の緊張の中で旧ソ連に対する西側の思い込みがやや強く出た結果ではないかと思うが、現代史のある一定の割合がこのような思い込みによって構成される部分がまだまだあるのだということを示唆しているようにも思える。既に60年も時間が経ったあとではあるが、深夜黙々と事実を確認するのも、そういう意味でなかなか楽しい作業でもある。

HIS創業者・澤田秀雄氏を読む(木羅)

●HISの創業者澤田秀雄氏の本「HIS 机二つ、電話一本からの冒険」を読んでみた。創業者といえばIT系のアグレッシブなビジネスマンの印象が昨今強いが、この本の中に登場する澤田氏の場合、趣味趣向から生じた意欲がビジネスにそのまま生かされていている部分があって、どこか心休まる気がする。わたくし自身、学生時代を中心にあちこち旅をしてきただけに、利益率やリスク係数などの観点とは別の次元で、自然に起業の意欲が理解できるのである。おもしろいものである。
●勿論企業経営者としての現実的で力強いアプローチにも魅力はある。格安航空券販売の草創期にパック旅行を販売する総合代理店からの圧力に屈することがなかった点や、飛行機会社がなかなかコンタクトに応じてくれない中で年配者の声色を使ってまで果敢に挑戦し続ける姿勢には、常識を超えたエネルギーがある。一歩間違えば狂人扱いされるかもしれないが、姿勢は常にポジティブである。
●ただこのような腹に力の入る局面において、心のどこかで目の前の困難を愉しむ余裕のようなものが澤田氏にはある。キャラクターであるという以上に、ビジネスそのものに夢や希望を感じている人間の強さのようなものがあるように思う。直接説明を加えてある箇所はないが、文章と文章の間から匂うように伝わってくる。額に汗する価値に不自然さがなく、底流にある自分自身のテーマに沿う者だけが享受することができる喜びのようなものがあるように見える。
●起業して巨額の資産を得るというのも大きな目標にはなるが、お金の使い途や、事業そのものから得られる満足感のようなものを適宜感じ取れるかどうかということも、起業を図ろうとする人々にとって大きな要素であるように見える。大きな石の塊を眺めて、出来上がった後の彫像を思い浮かべながらノミを振るうミケランジェロには、目的的な情熱とノミそのものから伝わってくる振動の手ごたえを愉しむ職人気質な喜びがあったように思う。同質の香りが感じられるという意味で、澤田氏のビジネステーマの選択と実行の過程には多くの示唆材料があるように思った次第である。

情勢判断への嗅覚の欠如を想う(木羅)

●昨今日中電車で東へ西へという具合に移動することが多い。仕事に関連することもあれば私用のことも多分にある。パソコンや各種情報機器類を持ち運びながらの移動なのであまり大きな単行本は体にこたえるから、軽量の新書本や単行本は必須のアイテムになりつつある。日常の煩瑣な現場で物語の世界をひと時愉しむのは悪くない趣味である。
●今週前半では竹内修司氏の「幻の終戦工作」を読んだ。ドイツが先に敗戦の憂き目に会った後、日本政府の関係者により連合各国に働きかけた終戦工作について記した本である。決して小説本のように面白く物語が展開する形式ではないが、史実を丹念に追跡して構成しているのは新書本にはない特徴で、結果として非常に面白く読むことができた。特に関心を持ったのは、日本政府中枢で国政を統括する人々に、国際情勢や外交上の微妙なコンテキストを理解しようとする意欲が希薄である点である。無条件降伏を求める各国に対して国体護持に固執しすぎた故にボツダム宣言受諾の申し出が遅れ、結果として二度にわたる原爆投下やソ連の参戦などを招いたこと。或いは、効果よりは不利益の方が多大に予想される、スターリン配下のソ連に対して仲介斡旋を依頼するスキームに固執する姿勢は、あまりにもバランス感覚が欠如しているといえる。
●開戦の時がそうであったように、終戦のときにも情勢判断とタクティクスに問題があったといえる。石油の備蓄などの面で2年間で追い詰められるのがわかっていてパールハーバーを奇襲し、終戦時には存在しないオプションにこだわるあまり、本質的な着地点のあり方をマネージできなかったということである。一個人のレベルの問題ではなく国家という巨大組織のレベルで、追い詰められた鼠のようなアクションに終始してしまうのは大いなる歴史の反省材料であるといえる。無手勝流に対応方策を決定していくはるか以前から、何処に如何様に着地するかを適宜予測し続ける繊細な嗅覚と判断力が当時の日本政府には欠落していたように思う。現代の国家機構のみならず企業経営の現場でも、本質的に必要なのはこのような能力ではないかと思う。示唆材料を数多く提供してくれる史実である。

超人の自由~「ナチュラル・ボーン・キラーズ」を想う(木羅)

●夏休み中は関西地域に車で出かけることになった。台風の訪れる前の時期、東名や名神を疾走する気分は爽快の一語につきるものであった。ハイウエイで受ける風はオリバー・ストーンタランティーノによる映画「ナチュラル・ボーン・キラーズ」の1シーンを思い起こさせるに足るものであった。刹那的ではあるにせよ、現実的な束縛を際限なく忘却できる自由に満ちた時間であった。
●わたくしの気分を説明するために、この映画の内容についても簡単に説明を加えておこう。作品自体は、行く先々で殺人を繰り返すカップルの逃避行を描いたバイオレンス映画である。主演のミッキー・ノックス役にはウディ・ハレルソン、妻のマロリー・ノックス役にはジュリエット・ルイスが当たっている。欧米各国で年齢制限公開や上映禁止となり話題を呼んだ作品であるが、わたくしの中ではニーチェ的な超人の自由とでもいうべき空気を感じる作品であった。殺人に対する罪の意識から開放された二人の、或る意味で純粋な愛情の表現形式は、人間の本質的な姿を偏見なく写し取ったものであるようにすら感じる。
●誤解の無いように説明を加えると、勿論わたくしは殺人を繰り返しながら逃避行を続けていたわけでは決してない。寧ろ終始善良であり続けた。スピードは速度標識を決して越えることは無かったし、直線をひたすら追いかけるように真っ直ぐに運転したのみである。ただ、ハンドルを握りアクセルを踏みながら、日常にあるいろいろな錆のようなものから解き放たれる快感を味わっていただけに過ぎない。が、そこには自由な意思を尊重する自然な野生を目覚めさせる効果が十分にあった。緑豊かな山中でアクセルを踏み込むわたくしの中には、この映画でハイウエイを走る二人の殺人犯が何故か重なって感じられたのである。解釈や感じ方に多くの余地がある映像だが、わたくしにはそんな印象を与える作品である。お薦めの映画とはいえないが、多くの感性に働きかけるという点で面白い作品である。


ハードボイルドな日曜日~キリマンジャロの雪を読む(木羅)

●久々にヘミングウエイの「キリマンジャロの雪」を読んだ。残暑厳しい一日だったが、秋の予感が随所に見えてくるこの時期になると過去の恋愛などについていろいろと思い出す時間がある。今日もそんな一日であった。ヘミングウエイのこの本はそんな気分になる時ふと手にしたくなる一冊である。
●登場する主人公ハリーの愛するシンシアという女性への深い愛情というものがこの作品の中にはある。恐らく著者ヘミングウエイ自身の人生の中にあったいくつかの体験が濃厚に出ている作品でもある。別離の後付き合うことになった、リビエラの伯爵令嬢リズや、現在の妻にも勿論愛情はある。が、シンシアに対する感情と比較することは難しい。彼女に対する愛情が駆け出しの作家になってから大家となった現在に至るまで一貫して愛情の対象として絶対的なものなのである。
●非常に重いテーマでもあり、書き方を間違えると極めて感傷的な作品になるところだが、巨匠ヘミングウエイのハードボイルド仕立ての構成で、極めて読み応えのある短編に仕上がってる。翻訳本やグレゴリー・ペック主演の映画作品もあるが、ことこの作品に関しては原書で読む方がいいだろう。ヘミングエウイ自身の力量が存分に生かされている作品であるが故に、その雰囲気というものが蜜の如く溢れる原典が適当だと思うからだ。
●日曜日の午後の時間、久々にこの本とともに過ごしたのは数年ぶりである。通常、時の移ろいとともに感じる部分が微妙に変わっていくものだが、ことこの本については殆ど変化がない。自分自身の中のいくつかの恋愛事情や、人生観とどこか一致するポイントがある作品なのかもしれない。数年後にまた手にとって読むとき、果たして現在と同様の感想を抱くのかどうか、妙に関心を抱く作品でもある。

山本一力著「あかね空」を読む(木羅)

●遅ればせながら山本一力氏の「あかね空」を読んだ。冷房の効いた東横線の車内、或いはファーストフード店の中で一気に読み終えた。含蓄があり、また読み易い文章であったが、なにより面白いということが熱中できた理由である。400ページほどの長編だが、延べ数時間しか必要としなかったのはひとえにそのことにつきる。
江戸時代深川を舞台にした作品である。京都からやってきた永吉が深川で豆腐屋を開くところから物語りは始まる。京都仕込みの味にこだわる永吉は江戸っ子の舌にはなかなか合わないという辛酸もなめるが、妻となるおふみ、或いは義理人情に厚い周囲の人々の手助け等により、暖簾を大きくしていくという物語だ。親子2代に亘って描き出す家族の姿には、恐らくこの作家の原点とでもいうべきものがあり、なんともいえず読み応えがある。
●ただ気になる部分もある。永吉とおふみがなくなった後からの展開があまりに性急である点。長男栄太郎を溺愛するおふみの感情というものの描き方にやや不十分なところがあり、物語の必然性に少々傷を作ってしまっている点などである。構成として先に仕上げてあったが故に、個別の登場人物や物語自体が自ら主張するキャラクターを殺してしまっているように思う。やや作家の構想力だけで一人歩きしている感があるのは否めない。
●とはいえこの作家には根源的な力がある。家族を中心とした情を描きこむ必然的な感情があり、読者を飽きさせない筆遣いの妙というべきものもある。この作家が今後発表していく作品には、愛読者として付き合っていきたいとわたくしは考えた次第である。

プリティ・ウーマンの記憶(木羅)

●映画「プリティ・ウーマン 」の中に主演のリチャード・ギアがピアノを弾くシーンがある。何ともダンディズムを感じさせる光景だ。特にわたくしのように楽器と名のつくものがいまだかつて何一つマスターできていない人間からすれば偉大であるとさえ感じる。
●なぜかはわからないがわたくしの幼少時にはピアノを習うのは女の子が行うものだという風潮があった。男の子は野球、女の子はピアノといった具合だ。スポーツは大好きなものであったにしても、ピアノを習ってはいけないということはなかったはずなのだが、非常に残念である。あの頃にピアノを触っていれば人生にまた別の楽しみ方が加わっていたのではないかと思う。
●そんな気持ちもあるからリチャード・ギアのこのシーンを見て過剰な反応をしてしまうのかもしれない。映画の中にあるシンデレラ・ストーリーに対する印象を超えるものではないにしても、このピアノ演奏のシーンには音楽コンプレックスを感じている古式ゆかしき大和男児に限りない羨望の気持ちを抱かせる映画であることは間違いない。遅ればせながら再びピアノ教室に通ってみたいという衝動に駆られているのはわたくしだけだろうか。


雨を想う(その2)~ラマンの記憶(木羅)

●ようやく梅雨らしくなってきた。雨が朝から終日降り続くと意識の底にふとした記憶が蘇る。空を覆っている雨雲を眺め、雨の滴を見れば、何かに癒されているようにも、清められているというようにも感じる。少し生温かい風は熱帯にいるような錯覚する覚える。今日もそんな一日だ。
●映画「愛人(ラマン)」の中に描かれるインドシナの風景が不思議に蘇る。仏領時代ベトナム。貧困の中にあるフランス人一家の15歳の少女と、資産家の華僑青年との情念を描いた作品だが、その官能的な物語以上に南国特有の大粒の雨が降るさまが印象深い。まだ少女に過ぎないマルグリット・デュラス役の少女の中にある感情の炎のようなものが激しいスコールの中でむしろ存在感を強化しているようにすら思える。
●かつてこの国がベトナム戦争後の戦勝気分を残し、一方で社会主義の本質に少々疑いを持ち始めていた1980年代末期に、わたくしは旅で海沿いの都市を訪問したことがある。ある朴訥とした風情のある国だ。多分主義主張や独立云々を巡る戦争が或る以前からこの雰囲気を濃厚に持っている地域に違いない。
●確かそのときも雨が降っていた。部屋の中で静かに眺めているよりも空を仰いで全身に浴びてみたいという強い衝動を強く感じさせる雨だった。そんな記憶がある。雨混じりの天気になるたびに、そのときの記憶とこの映画の中にあるインドシナの情景が不思議に交錯するようになった。東京の雨は残念ながら午後には上がってしまったが、もっと激しく降り続けばよいのになとふと考えた。仕事帰りの電車の中でのことだ。