生産性を語る人々(巌野)

●基本的に政治家を好まない。従ってやや無責任だが、常に選挙では批判票だけを投じてきた。与党も野党もなくである。しかし昨今の”LGBTは生産性がない”という主張を行う与党の政治家の文章を雑誌で読んでいるうちに、大変不快な気持ちになった。政治や政治家について論評しないという自らの掟を久々に破ることにした。
●この政治家の言う生産性という言葉は、子供を産まないからGDPや税収に貢献がないという意味で使用しているのであろう。同じ論点の先には、LGBTだけでなく退職後のシニア世代、私のような非婚・独身者、税金を納めていない路上生活者、障害者の人々などが批判の対象となることを意味している・・・。論理・論点の問題という以前に言葉遣いの背景にある何物かに生理的な嫌悪感を覚えた。
●話は少々脱線するが、学生時代にアウシュビッツに行き、現地ガイドから当時の収容者の選別方法を聞いたことを思い出した。欧州各国からアウシュビッツに集められた人々は、列車から降りるとドイツ人将校の指先一つで、ガス室での焼却処分となるか、延命して報酬のない労働力となるかを決められる・・・。基準はただ一つ、”生産性があるかどうか”だ。
●このドイツ人将校の姿は、フランクルの「夜と霧」にも出てくる有名な光景だが、渦中の与党政治家と印象が重なる。あたかも生殺与奪の権限を与えられた特別な人間だから、この指先で国家に無意味な存在の運命を左右することに何の躊躇もないといわんばかりである。彼らはその意味を深く考えたりはしない。どこかの誰かが決めた一元一次関数に基づいて合理的に執行しているだけだ。本人はそう言うに違いない。
●問題の核心は本人の知性と幼稚な言葉遣いだけではない。何事も目先の直接的な経済性のみで判断しようとする近代合理性の歪みがここにある・・・。無二の親友の家族が離散する光景や、大好きだった祖母の遺骨を拾ったことのある人間なら、そこに生産性などという言葉は持ち込まない。人間は1円にもならない感情や人間関係のためにお金を使うものだ。副次的な経済的効用や損得勘定だけで尊大な論評を加える愚かさを理解してもらいたいものだ。

政治家不要論を考える(巌野)

●伊藤博文が明治憲法の草案を起草しているころの文献を読んでいると、伊藤自身が政治家や議会というものを信用していない様が伺える。ドイツで当時最も権威ある学者から直接講義まで受けた伊藤がそう考えたいたとすると、現代において私が不信感を持っていても不思議はない。
●私だけではない。アメリカがそうであったし、フランスも結局同じ結論に達するように見える。現大統領のマクロンの直近の支持率を見ると、この大統領も歴史上の一時的な特異現象でしかない。既存政党や職業政治家に対する根深い不信感は今後も世界の政治状況を揺さぶり続けるに違いない。
●最近の民進党の代表選挙を眺めていても、その思いは強まるばかりである。現時点で既に二大政党制は抽象的な言葉遊びの域に達している。未だに真剣にその枠組みで政局転換を図ることができると考えているのだとすると、旧社会党の二の舞となるのは目に見えているといっていいだろう。二大政党という話の前に、国会や議員・政党といった利害調整機関への大いなる失望が、選挙民に蔓延しているという事実を直視すべきではないかと思う。
●最近よく考えるのは、伊藤が現代に生きていたら何をしようとするかということだ。考えられるのは、無意味な権力闘争に終始する、既存政党の排除だろう。自民党も民進党もいらない。維新もファーストも不要。必要なのは統領と輔弼機関のみでよいということになるような気がしている・・・。

ボブ・ディランの文学賞はおかしいという議論があるようだ(巌野)

●私はボブが好きなので、今回のノーベル賞受賞に違和感はない。しかし定義と分類が重要だと思う人は、妙だと思ったようだ。気持ちはわからなくはない。
●しかし違和感というなら、個人的には1953年のウィストン・チャーチルのほうがより強く感じる。文章や演説がよいからといっても、政治家であるから、アーティストには入らないと感じるからだ。文学という定義が崩れるにしても、芸術の一分野という分類が崩れなければいい。私はそう考えている。
●少々脇道へそれるが、ボブについて、私が最初に思ったのは、この際ノーベル賞なんぞ辞退してしまえばいいということだった。 ボブの反戦的なテーマからすれば、爆弾を発明した男が設立した財団から金なんかいらない、というような歌詞が出てきそうだと思ったからだ。いろいろ憶測はあるが、実際のところ、そんなことを考えているうちに、ボブの行方不明報道が出たのではないかとさえ思った。事実は闇の中だが、個人的にはこちらに興味がある。
●そういえば、最近ノーベル賞を辞退する人物がいない。歴史上3人しかいないらしいが、確信犯なのは、サルトルとレ・ドウク・トの二人だけだ。尊敬と親しみにおいて、私の中でサルトルは絶対だから、大好きなボブにも辞退してほしかったというのが、私の偽らざる本音だ。ボブも年を取ったから、反骨精神が消えちゃったかな、とふと寂しく思った。

淵田美津雄氏と維新後の幕臣たちが現代に語り掛けるもの(巌野)

●数か月前淵田美津雄さんの特集をNHKで見ました。淵田さんと言えば、真珠湾攻撃の航空隊を指揮した人で、戦後になって、宣教師としてアメリカに渡ったというくらいしか知識がありませんでしたが、その道程はやはり簡単なものではなかったようです。
●戦後世代からすると戦中・戦前の話というのは、どうしても縁遠くなるのですが、軍隊のような巨大なピラミッド組織の頂点にいて、生きる目的と意義を完全に固定して生きてきた人が、180度別の道で、しかも元の敵国へ出かけるというのは、生半可な気持ちでできることではない。見ていてそんな感想をいだきました。
●歴史を眺めていると、こういう時代の裂け目のような時間には、同じような体験を余儀なくされる人々がいます。最近少々時間をかけて調べてみたのは、明治維新後の普通の幕臣たちのことです。銀座の木村屋を開いた木村安兵衛は有名ですが、数少ない経済的成功者の一人にすぎません。戊辰戦争に参加せずに、静かに明治を迎えた幕臣たちの行先は、静岡へ下るか、薩長を上司に仰ぐ下級役人・警察官となるか、それとも全く無関係な士族ビジネスに乗り出すか、3つのうちのいずれかしかなかったようです。
●興味深いのは、3つの選択肢のうち一番人気があったのは、最も給料が安かった静岡へ下るという選択肢です。現代からみれば役人になるほうがいいと考える人々が多かったのでは、と考えたくなりますが、当時の二君に見えずという価値観と意義からすれば、断然静岡藩士として生きるほうがよいということのようです。また逆に最も不人気だったのが、明治新政府に仕えることで、理由は同じだったのでしょう。生きる意義を、金銭的価値ではなくて、忠義・忠臣の道として捉えていた証左ではないかと思います。
●すこし話を戻します。昭和の軍神淵田美津雄さんが、江戸時代の幕臣と同じような心境で、終戦後の自分の故郷奈良で過ごした時間というのも、そういう意味で非常に厳しいものだったのだろうと考えるわけです。軍神だったはずが、官職を解かれ、敗戦の責任者・元凶とまで噂され、人間関係を断って、家で一人酒を飲む。それは簡単に解きほぐせる苦痛ではないだろうと思うのです。
●幕臣たちとの比較でいうと、淵田さんの場合、官職を得る道も、旧組織に残る道も雲散霧消したので、道は一つしかありません。要するに一人で何かするしかない。しかし一人何かをするときに、価値観や意義は家族を守る以上の特別なものはないように見えたでしょう。家族はとても大切なものですが、高邁なべき論で生きてきた人々からすると、 簡単に明日から気分を変えて、商売一筋というわけにはいかない、ということです。
●この点については、淵田さんの場合、たまたま目にしたアメリカ人宣教師の姿に心を打たれて、宣教師の道へ進むことになります。金銭的価値ではなく、同じ戦争で敵国側にいた兵士が日本で宣教している姿の中に、自分自身を見つけていくのです。幕臣に例えていうなら、西南戦争後に鹿児島で僧侶をやるようなもので、勝海舟山岡鉄舟でもこのような選択をする勇気はなかったのではないか。私はそんな感想を持ちました。
●どうしようもなく苦しい選択を迫られるのは現代でもよくあることです。勿論仕事を変えるということもそうですが、それ以上にもっと難しいのが、心の問題です。それまでの価値観や意義を完全に無視することなど、人間にはできないことです。腹にしっかりと落ちて、違和感がない答えを導き出そうとするとき、この淵田美津雄という人物が辿った道筋をふと思い浮かべてみるのもいい。今晩はそんなことを考えました。

言葉の真贋を見抜く(巌野)

●若いころ年長者の言葉は耳に入らなかった。世の中の人々と同様に鬱陶しかったからである。しかし多くの人は、その時の話にきちんと耳を傾けておくべきだったという。しかし、私はそう思わない。
●年長者に限らずかくあるべしという言葉には利害が持ち込まれている。私がかつて聞いた、鬱陶しいと思った話の半分以上は、発言者の思い込みや偏見、あるいはその人自身の利害のために作られた言葉であった。そのことを考えると、特に若い人は、言葉の意味を咀嚼する以上に、真贋を見抜くポイントを理解しておくことが必要だろう。
● ヒトラーやゲッペルス張りのべき論だけでなく、妙に熱っぽい割に、口先なめらかで、腹から出ていない言葉は、その殆どが虚妄である。何か特定の目的を達成するための言葉で、聞く価値はない。高度な内容を含んでいるように見えるが、内容(言葉)よりも言霊を見抜くべきである。
● 大切な言葉は常にひっそりと隠れている。あなた自身が必要としているときに、特別に耳をそばだてているわけでもないのに、意味のある言葉は不思議に心を射抜くものだ。チベット仏教の埋蔵経典、図書館の帯出厳禁のステッカーの貼ってある書籍群、痛みや喜びの感情を伴って人が発する何気ない一言。そういう言葉の中に大切な何かが隠れている。
●私はある時から、言葉の理解の仕方を変えた。要するに魂で理解すればいいのだ。べき論はマニュアルの丸暗記が多いから魂がない。戦時中の戦陣訓、ゲーテやシラーの格言をもじる教育者、ナポレオンヒルやアイアコッカなど著名経営者の言葉をオウムのように伝達する会社社長、意味も分からずに経典を丸暗記して講釈を垂れる宗教者。そういうものはすべて聞き流せばいい。大切な言葉はあなたの胸に必ずささるものだから、内容を理解するよりもそれを感じるほうがいい。言葉の源流は魂にあるはずだからだ。
●本物の言葉は隠される。パピルス紙に記された福音の言葉や、ヒマラヤに埋蔵される経典もその一部だろう。隠された本物を探すのはあなたの本質である。本質と本物が出会うことによって、言葉は魂に響き、あなた自身に語り掛けてくるものだ。

パリ証券取引所の大暴落とポール・ゴーギャン(巌野)

●何事も計算だというビジネスマンA氏がいます。たぶん利益やリスクのことをさして言った言葉でしょう。彼の言葉の定義からいえば、本当の意味での衝撃的な出来事は何も存在しないということになります。果たしてそれは正しいのでしょうか。
●このことを考えるとき、私の頭の中にはゴーギャンの面影が浮かびます。ただの日曜画家でしかなかったこの人物が突然プロに転向する気になったのは、1882年のパリ証券取引所の大暴落が契機になったといわれています。証券会社で高給を取っていたゴーギャンにとって、それは衝撃だったのでしょう。人生に生じる予測不可能な出来事を直視したゴーギャンは、生活する目途も立っていない画業に専心することになるのです。
●これは常識的に言えば、計算不能なリスクを取る決断だといえます。冒頭に登場したビジネスマンA氏などは決してこのような選択肢をとらないでしょう。しかし本当の意味での予測不能な現実に直面したとき、人は経済性や常識の垣根を越えて、本質に目覚めるのではないでしょうか。計算できる、或いは想定できる未来の枠の中だけで生きていくということは、概念として衝撃的なものではありません。また衝撃的な出来事をもって本質を知る機会になるのだとすれば、全ては計算できるという思い込みの中で生きている人は、反面不幸な存在であるのではとさえ、思ってしまうのです。
●仕事も捨て、家族とも別れ、タヒチで独り孤独に死んでいくゴーギャンの姿は、常識から言えば悲劇的です。しかし衝撃をもって、本質を知ったゴーギャンにとってそれは不可避な自分の運命のようなものだったのではないでしょうか。本質というのはえてして常識を踏み越えていくものです。踏み越えた先に何があるかを計算して、足を踏み出すようなものではありません。ただ自分の前に広がっていく一本の道を歩いていこうとする、とてつもないエネルギーを自覚するというだけのことではないでしょうか。
●この十年間に生じた大地震と経済危機は、私を含め多くの人にとって衝撃的な出来事だったのではないでしょうか。それはビジネスマンA氏のいう計算できる類のものでもなく、その意味を単純に咀嚼できるものでもありません。ただひたすらに打ちひしがれる時間と、受け入れなければならない痛みを感じる、長い長い時間の連続でした。しかし、種類は違っていても、やはり歩んでいくべき一本の道が、各人の前に広がっている、ということに、そろそろ気がつかねばならないではないかと思います・・・。東北にある親戚と友人たちの墓を最近訪ねて、私はふとそんなことを考えました。

洪秀全の夢、そしてデカルト万能主義の現代(巌野)

●太平天国の乱を起こした洪秀全が、乱の前、夢の中でとある老人と出会い、汚れきった世の中を一新することが天命だと諭された、という話がある。歴史上の逸話として面白いと思うのは、科挙に三度も落第した後だということだ。3年に一度程度しか行われない試験だから、10年越しの夢の実現の道を閉ざされたという状況にあったらしいというこうだ。
●悩みの尽きない人間は時に夢を見る。洪秀全の夢と同様に、真偽は定かでない。実際洪秀全の太平天国は勢いを盛り返した清軍に最終的に鎮定されてしまうから、夢の中に登場した老人のいう天命というものに意義があったのかどうかはよくわからない。異民族である満州族の王朝を倒す一助となったという程度の話だ。洪秀全にとってそれがよかったのか、悪かったのかも明白ではない。
●心理学者などはこの手の夢をいろいろという。潜在意識の現われだとか、まあいろいろだ。きっと現代の病院へ洪秀全が出かけたら、医者に”科挙なんかやめて、他に生業を探しなさい。それが一番だよ・・・”といわれるだろう。現代の科学万能の思考回路では、何事も特異な現象を人間の精神の問題(つまり非科学的な問題)だとしてしまうからだ。
●何事にも合理性をもって説明を加えようとする傾向は、17世紀のデカルト登場以後のことだろう。産業革命やフランス革命など、近現代の歴史はつねにこの合理性(言い換えると利益追求)を求める運動に終始してきた。しかし合理性を追求して、科学が発展すればするほど、実は説明のつかない更なる謎の存在に気づかされる、ということのほうが実ははるかに多いのだ。
●中世から近代まで、人間は宗教や福音書の教えを是として、ガリレオを異端視した。現代という時間は、逆にガリレオを神様にして、聖書やコーランを軽視しすぎているのではないだろうかと思う。世界の様々な宗教の中で、原理主義を信奉する人々が増えているという現象は、実はこの合理性追求によって生じる矛盾を起源としているのではないだろうかと、私には思える。
●洪秀全の夢と同等のものは現代の人のこころにもある。科学からすれば全てが根拠のないものだということになるだろう。しかし世界の合理性の矛盾(例えば貧困そして戦争)に気づいた人々には、目に見えない何かを必死に信じて生きようとしていると理解すべきだろう。敵対的に考えるばかりでなく、同等の目線で矛盾をみる姿勢が無ければ、現代の混迷が解決に向かうことはないのではないかと、私は思う。

スキャンダルと事件を糧にする人々(巌野)

●事件事件と騒ぐマスコミに辟易している。スキャンダルばかり探して大臣の適正やいかにと騒ぐ女性政治家にも正直不快感ばかり感じる。あら捜しばかりしているから、本業の成果は関係ないようだ。あまり真剣に彼らの話を信じる必要はないだろう。捏造してでも誰かを血祭りに上げることが彼らのビジネスであるのだとしたら、そのような商人を私は好かない。
●昔こんな話があった。欧州の文豪に対して、とある著名なジャーナリストが、アフリカで飢餓に瀕した子供たちにとってあなたの作品はどんな意味があるのかと質問した。作家は一言、何の関係もないと答えたという。私は正しい答えだと思うが、そのジャーナリストは随分長い間この作家に噛み付いた。そのジャーナリストは、何事も恵まれない人々のために対する奉仕として、万物を位置づけたいと思っているのだろう。どうもこの手の直線的な意味論や、主義・ドグマの類には本質的に嘘があると私は思う。
●政治家は政治家の本分で問えばいい。文豪は作品の中身を見ればいいと私は思う。漢の高祖は田舎の盗人だったし、伊藤博文はいつも料亭で芸者と遊興におぼれていたが、政治家としての業績は目を見張るものがあった。太宰治はまさに人間失格な人生だったが、同名の作品は今読んでもどこか心の深い部分に触れるよい作品である。アフリカの飢餓に瀕している子供たちには何の貢献もなかったが、どうしようもない若年の苦しみに震えていた人々の心は救われてきた、そういう現実がある。
●従って、人を殺すのはいけないと諭す宗教家や、殺された家族の苦しみ、或いは加害者の葛藤を描く作家を私は認めるが、こんな殺人があったと拡声器で騒ぎ立てたり、加害者の残虐性や被害者の悲惨さを善悪二元論だけで説明しようとするマスコミや事件屋の類が不快だ。一体何をするつもりなのだろうか。徹底的に悪人を作り出して、打ち据えることだけが目的であるように感じる。現代の魔女狩り、近い歴史でいえば社会主義国家で頻繁に行われた人民裁判のようだ。
●妙に身奇麗になって、口からつばを飛ばして、責任やら資質を追及し、現代版の悪魔を作り出している人々の姿は、社会の堕落と私には映る。彼らによって何か社会が前進するということはない。本業を忘れて身づくろいばかり気の利いた社会ができるだけだ。国会や電波を使う場でこんな茶番劇をしているようでは、それこそアフリカの子供たちに失礼ではないかと、私は思う。

21世紀の資本論(英語版)を読む(巌野)

●トマス・ピケティの21世紀の資本論(原題”Capital in the Twenty-First Century“)が話題になっている。先日国会の答弁でも登場したからさすがに驚いた。米国のような資本絶対主義の国や、日本のように社会主義はもうトレンドではないからやめておこうというような風見鶏研究者の多い国では、なかなかこういう本を出版することは難しい。フランスという国の懐の深さには改めて脱帽する反面、はやりものに弱い日本の、柔軟だが主体性のないところが久々に気になった。
●さてこの本、とはいえまだ日本語版が出版されていない。フランス語版がオリジナルだが、英語版は出版されているから、今年の春先に英語版を買って読んでみた。印象としては、さすが経済学者の本だなと思わせる重厚な説明と文書だから第一印象はいつ読み終わるかということだった。しかし多少読み進めていくうちに、その何とも歴史ロマンに満ちた内容に深い面白さを覚えた。
●200年間にもわたって、いわゆる資本家が手に入れる資本収益率と、労働者が手に入れる価値(経済成長率)との関係を調査したというこの研究家の努力には惜しみなく拍手すべきだが、結局のところマルクスが予見した将来図と寸分変わらずに現代を迎えているという皮肉な現実にたどり着いているのが興味深い。要するに資本収益率が常に経済成長率を上回っているということだ。日々の給料からどれだけ貢献を果たしたところで、同じ時間を掛けて得られる資本家の利益のほうが勝っているということである。
●日々あくせく働き、じっと手を見る労働者は、21世紀も相変らず損な役割であるということだ。多少の違いは小額でも株主になる道、すなわち株式投資をすることが現代では比較的簡単であるということだけだ。わかりやすく言えば、昼間からブラブラしていても、ある程度の規模の資産を転用して、投資利回りを狙うほうが、朝の8時に会社にいって、嫌味な上司にばかばかしい仕事をさせられるよりも、稼ぎの面でも有利だということだ・・・。
●ピケティは結論としてこうした不均衡を是正するためには、富裕者向けの税の体系を構築することだといっている。しかしこの結論には、現代の富裕層が簡単にYesとは言わないだろうとも思った。かつてマルクスが考え、レーニンが実行策を考えた不均衡是正の仕組み論であるからだ。一度失敗した取り組みを再度実施するのでなければイタチごっこのような、課税合戦となるだけのような気もするのだ・・・。
●一度死んだといわれたマルクスを改めて検証するよい機会とはなったが、社会全体の均衡是正という問題については、実行手段選択の難しさという意味で、再び高いハードルの前に立ち尽くしているような気がしたのは、私だけではないだろう。

典型的な悪を血祭りにあげようとする社会の構造(巌野)

●昨今世の中が罪と指弾する出来事に無関心になった。マスコミが書く記事だけでなく裁判所で下される判断についても同様だ、確かに罪には違いないが、そのいずれもが人間が犯してしまいかねないものだと考えてしまう部分がある。だから、出来の悪い勧善懲悪もののような言い回しで、罪を犯してしまった人をこれでもかと叩こうという気にはなれないのである。
●中世の歴史をふと考えることがある。当時の仏教は罪人や娼婦などの女性は成仏ができないということになっていた。要するに、悪いもの、社会的に別紙されるようなものには成仏する資格がないと、特権階級になった僧侶たちが位置づけたのだろう。本質的にそのような解釈を付け加えるのは、原典から考えてまったくナンセンスだ。しかし大陸から入ってきた仏教は、世俗権力との一体化を図って、社会における居場所を確保するために、そうした意味不明な解釈を行うようになったのだろうと思う。
●同様の事情はローマ帝国の国教となった後のキリスト教にも言えることだ。三位一体を正統と位置づけて帝国統治体制と一体となる道を辿ろうとするあまり、それ以外のすべての考え方を異端とした。中世になって欧州で嵐のように吹き荒れる魔女狩りは、こうした異端認定を受けたキリスト教分派や、地域に根ざした古代宗教の関係者に向けられていたと考えるほうが自然だ。違うもの、よくわけのわからないもの、自分たちに従わないものはすべて悪となり、火刑に処してもかまわないということに発展していく。
●社会は常にキリスト教社会の想像した悪魔を作り出そうとするものだ。自分たちは神様のしもべだから、悪魔など殺してしまってもかまわないという立場で話をしようとする。出来の悪いホラー映画のような筋立てだ。しかし、善と悪というものは人間の中で混在しているものだと私は思う。故に悪魔がいるというなら、それは神様のしもべだといっている人間自身にも本質的に存在していると考える。殺してしまってもいいというなら、人間はただの一人も地球に存在しなくなってしまうではないか、とさえ思う。
●世界は実は総じてコモディティ化し、保守化している。わかりやすいものを優先し、よくわからないものはゴミ箱に放り込もうとしている。しかしそのよくわけのわからないもの、悪いものはすべて、人間の体の中、頭の中に存在するという立場にたって考えるべきだろう。結構な時間生きて、社会を眺めてきた私は、最近ようやくそのことがわかってきたような気がするのである。