日本のお家芸はいかなる方向に向かうのか(小宮山)

●実家が三鷹なのでわたくし小宮山の正月はいつもさびしい限りです。私も田舎に生まれればよかったのにと、子供の頃からずっと思ってまいりました。故郷へ帰るというちょっと詩的な響きを味わってみたいものです。
●そんな私ですが、昨日海外赴任中のA君が正月休みで実家に帰ってきたところを狙い撃ちして、これからの日本のお家芸について少々議論してまいりました。大崎に本社ビルのある、元世界企業の家電メーカーに勤めていたことがあるA君は、現在は食品会社に勤めています。何でも日本の家電は終わったのだとか・・・。現在はその語学力を買われて、中東やアフリカ関連の市場開拓に携わっているようです。
●A君いわく。テレビとかビデオの時代は終わった。デジタル技術の普及で製造はワンチップと組み立てになり、技術の革新は研究開発とソフトウエアに移った。だから家電は徹底的な機動性と市場性に敏感な会社だけが生き残り、それ以外は淘汰されるんだとか。戦争に例えると、戦艦大和ばりの巨艦大砲主義的なエレクトロニクスメーカーは太平洋に沈み、小回りの聴く空母と艦載機で戦争をする時代になるということでした。
●A君の言葉をそのまま丸呑みしてしまうと、日本のお家芸はなくなってしまうのではという危機感をもちます。結局のところ為替レートで収益力が回復しているにすぎないアベノミクスのその後を考えると、そこに一体何があるのかと、大変心配な気持ちになりました。これはA君も同様のようで、安部首相などがいってる利益の賃金への分配や設備投資増加など以上に、本質的には次世代のお家芸獲得に向けた研究開発が、最も必要な領域ではないかというところで、お互いの理解が一致したのです。
●二十年ほど前はよくこういいました。20パーセントの世界企業が日本をまかなっている、残り80パーセントは競争力のない内向き企業だと・・・。現在はどうなっているでしょうか。その20パーセントの企業は円安だけが頼みの、その日暮らしの企業となり、80パーセントが昔と変わらず規制の中でぬくぬくと安住する社会になった・・・、やや言い過ぎかもしれませんが実際の企業サイドの偽らざる現状認識はそんなところに落ち着いているようなのです。
●これからの日本はどこに向かうべきなのでしょう。昨年政府が示した成長戦略や規制改革はあまりに中途半端な代物でした。とても日本の子供たちに夢を与えられるようなものではありません。株などの資産バブルだけ起こって、たいした政策が示されなかったことが記事にならなかったのだと思います。悲しい現実です。今年はそのような意味で、真の日本の復活を占うような足腰のあるビジネスモデルの登場を期待したいところです。政府に任せるというのはなく、民間側でみながまじめにそのことを考えるという土壌が必要な気がいたします。私自身、2014年はその一助となるべく、新しいビジネスをいくつか具体的に推進していく計画を練っている最中であります。

グレゴリー・ペックに癒される(小宮山)

●昨晩妙に疲労感を覚えたせいもあり映画を一本見た。グレゴリー・ペック主演の「アラバマ物語」である。昨今の特徴として疲労感の原因が単に肉体的なものでなく、精神的なストレスに起因することが多くなってきたという事情もあるが、ある家族的な温かみに満ちた作品に心の癒しを覚える。昨晩もそんな悩ましい夜のうちのひとつであったというわけだ。
グレゴリー・ペックという俳優には何か心温まる映画のシーンがよく似合う。これまで演じてきた数々の名作の中でもダンディーだが清潔感が多分にあり、いまだにこの人物の印象には汚れた部分がない。この映画の中でもそのイメージは裏切られることはない。物語としては、アラバマ州の小さな町に住む弁護士アティカス・フィンチと子供達の生活を映し出したものである。グレゴリー・ペックはこのアティカスを演じる立場で、婦女暴行事件の容疑者にされた黒人青年の弁護を担当する役回りである。黒人への差別意識と偏見により明確に無実であるにも関わらず訴訟には敗北し、悲観した被告は結果として自殺の道を選ぶことになる。社会の暗部を抉り出すきわめてシリアスな場面であるが、子供たちの目線で展開されるが故に素朴に正義を問いかける健全な雰囲気がたちこめている。グレゴリー・ペックの清潔で温暖なイメージに相応しい作品でもある。
●2時間ほどブラウン管を眺めたことで、癒された部分は十分にあった。まだまだ年齢の多寡についてあれこれ愚痴をこぼす年代でもないが、何か齢を重ねる毎に心のどこかに何か救いを求めたりする部分が増えたように思う。きわめて資本主義的な組織や、むき出しの欲望とはある一定の距離を置きたいと願う部分がある。自分にそのような気持ちが年々強くなってくるというのは、二十代の時分とは大いに異なる気質の変化だが、それとともに精神的なストレスが大いに増えたというわけである。グレゴリー・ペックという俳優に何か親近感を感じたり、感じたいと願うわたくしの心には、現在の生活の中に不足した何かがあることを示唆しているような気もする。心落ち着く時間でもあったが、変わりつつある自分に気づかざるを得ない瞬間でもあった。

共鳴し得ない価値観の孤独~「市民ケーン」を観る(小宮山)

●昨晩友人と夕食をした後、懐かしさもあって「市民ケーン」を久しぶりに見た。以前は、ややなぞめいた言葉である「バラのつぼみ」という言葉に関心を持ったがそれ以上ではなかった。そんな記憶がある。映像の巧みなどの批評の言葉は別の時代の人がもったものであるとしか思えなかったので、随分失望したようにも思う。学生時代の話である。
●あらためてこの映画を眺めてみると多少異なる印象もある。ケーンという人物を語る多くの登場人物たちの印象である。「バラのつぼみ」といういってみればケーンの人生のすべての価値観を代表するキーワードに対して、何の説明も加えることができない登場人物たちの冷たさのようなものに特別な関心をもったのである。元妻あるいは会社創業に加わった人々などケーンの人となりについて多くの知識を持っていてもよいはずの人々には理解することができなかったのか、それともケーン自身が生前何も語らなかったのか明らかではないが、寒々とした印象を持たざるを得ないのである。
●多分に社会というのは外面のステイタスというものに偏重する部分がある。ケーンという新聞社社主のようなきわめて高い人物にとどまらず、普通に生きるわたくしのような人物に対しても同様の視線がある。この人はこうだという鋳型をはめてしまう材料は社会的な肩書きに依存してしまう傾向が大きいのである。その意味では、内面に位置する本質的な価値観について共鳴する瞬間はなかなか生じ得ないのかもしれない。社会のさびしい現実である。「バラのつぼみ」という言葉が自分の価値のすべてであるなら、何をどのようにするのだろうかとふと考えてしまう部分があるのはわたくしだけだろうか。思いがけない映画との再会だった。

歴史ミステリー「聖骸布血盟」(フリア・ナバロ)を読む(小宮山)

●日曜日の物憂い時間を使ってスペイン人作家フリア・ナバロの「聖骸布血盟」を読んだ。タイトルのつけ方からも歴史上の謎のひとつである聖骸布に関する好奇心をいやおうなく刺激される作品だが、実際に読んでみると欧州でベストセラーになるだけのことはあると感じるものでもある。ジャンルとしては、ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」と同様、歴史ミステリーということになるだろう。歴史上の謎をミステリータッチで追跡する形式であるから、単に楽しむということ以上にヨーロッパの宗教史を知ることにもなり、日本人にとっては二度おいしい作品でもある。
●物語はキリストの聖骸布を保管するトリノ大聖堂で火災が発生するところからはじまる。焼跡から発見された舌のない男の焼死体を手がかりに、主人公である美術品特捜部員ガローニ博士が、2000年に及ぶ過去の聖骸布の歴史と、現在起きている事件の登場人物やその動機を結びつけ、謎を解き明かしていく筋書きである。エデッサの王アブガルス王のらい病を治癒したという伝説や、テンプル騎士団にまつわる様々な説話を基にしているため、欧州で語り継がれてきたキリストにまつわる多くの謎を秘めた話に接することができる点は、日本人としてはなかなか新鮮で面白い。また1988年に放射性炭素年代測定法によって、このリネンの布がキリストの時代ではなく1260年から1390年の間の中世のものであると証明された事実にも触れ、実は聖骸布が二枚存在したという仮説を構築してみせている点もなかなか巧みで面白い。
●ただ多少残念なのは、後半部分に入ってから、この聖骸布を盗み出そうとする犯人の姿が大方見えてきてしまうことだろう。これは著者自身が歴史自体の面白さに引きづられたがゆえに、ミステリー作品としての大団円に対する意識が少々低かったことが原因ではないかと思う。このジャンルの作品の難しさであるには違いないが、最後の50ページ程の部分には少々興ざめの部分があったのは間違いない。面白いという意味で否定はしないが、次回作ではやや技術的な部分でもエンターテイメント作品としての完成度を期待したいものである。

ベルト・トラウトマンの人生(小宮山)

●ドイツ人戦記作家パウル・カレルの著作「捕虜(G¨unter B¨oddeker)」には、第二次世界大戦で捕虜となる宿命を辿ったドイツ人について、多くのエピソードが紹介されていて面白い。あまり歴史上で知られていないドイツ人捕虜たちの各国収容所での実態やその後の人生の過ごし方などについて、旧西ドイツ政府が実施した聞き取り調査などの結果を基に作られているが故に、単に歴史上の事実を知るということ以上に、個々人の肉声に近いメッセージを随所に感じることができるのだ。困難な状況で如何様に人は生涯を全うしていくのかということに大いなる関心を持つわたくしには大変興味深く読むことができた本である。
●この中で特に興味を引いたのは、1945年にルール包囲陣で捕虜になり英国に連行されたベルト・トラウトマンに関するものである。この人物は収監後、リバプール近郊にある捕虜収容所内部でサッカーに興じるうちにその能力の高さを認められ、終戦後に解放許可書を得たにも関わらず、故郷ブレーメンには帰国することなく英国にとどまる道を選ぶ。農場で働きながらのサッカー生活を一年経た後、名門マンチェスター・シティーにスカウトを受け、1956年には国内リーグでの優勝に多大な貢献を果たしたスタープレイヤーとしてMVPをも手に入れる。敵国捕虜の身の上であったにも関わらず、僅か10年ほどの間に英国女王から表彰される立場になったというのは、英国スポーツ界の懐の深さもさることながら、トラウトマン自身の生命のエネルギーとでもいうべきもののすさまじさを感じる。
●東部戦線でソ連に捕縛された人々が、関東軍のシベリア抑留と同様、酷寒の地域でコークスの採掘作業などで命を縮める生活を余儀なくされたことと比べれば、随分状況は異なっている。大陸側で陸続きの惨劇を味わっていない英国で捕虜となったトラウトマンはこの点幸運だったといえる。が、母国の状況や自分自身がヒトラー・ユーゲントに所属していたという後暗い過去の事情、或いは初期の英国ファンの中にあったブーイングの嵐にめげなかったというのは、この人物の根源的な強さであると思う。昨年英国王室からスポーツを通じて英独関係を向上させたことにより叙勲の栄誉を受けるに至ったのは、この人物の逆境にめげない力強さそのものが評価されたと見るべきである。日本ではあまり知られていない人物だが、その人生には多くの示唆と教訓を与えてくれる材料があるように思う。

双方の限界~IT業界のメディア買収報道を想う(小宮山)

●最近のTOBの関連ニュースには1980年代の米国などでの風潮が再現されているように思えて仕方がない。日本でもかつて小糸製作所をめぐるブーン・ピケンズ氏の動向が世間をさわせたことがあった。わたくしは学生時代にこの事件についてWall Street Journal誌上に記載された記事を丹念に読んだことがあり、何か郷愁を刺激する香りすら感じるのだ。ただこの時代と異なる点が現在のTOBには多々あるようにも思う。
●一連の報道を聞いてきて気になるのは、買収対象にあげられている企業が公共性を旗印に支配権の移転が適当でないと主張している点と、買収元の新興企業のモチベーションである。前者については、上場という形式を採用したという過去の事情がある以上、株式の所有に意義を申し立てる姿勢には本質的に違和感がある。また後者については、そこまでメディア企業のコンテンツが不可欠と考えていることから考えて、インターネットというクール・メディアの媒体価値がたいしたものではないと自認する立場に立っているようにも見える。新興市場への期待値の高さから高い株価形成をなしえている新興企業は、実はテレビなどとの融合を果たさぬ限り、単体では成長曲線を描けないのだと主張しているように見えて仕方がないのである。
●双方とも異なる歴史と現在があるにせよ、そもそもTOBなどが起きる前から各々の現在のあり方に限界が生じていたのではないかと思えてならない。放送業界には、認可制の”公共”事業でありながら視聴率稼ぎに走る得体の知れない部分があり、新興市場には期待値が高すぎるが故にM&Aを繰り返す投資銀行のような姿にならざるをえない宿命があるように思う。その意味で、今回の一連の出来事について支配権がどのようなものになるかということ以上に、わたくしには各々の業界が今後どのようなかたちで市場の中で存在価値を見つけていくのかということのほうにより大きな関心がある。
●かつてアルビン・トフラーが言った第三の波がいわゆる情報という波であるなら、今回の一連の出来事の関係者である放送・ITも双方同様にこの波の中にある。ただ、この波が今後も益々価値を出していくこと、或いは現在の価値を維持し続けることができるのかということについては大いに疑問が残る。今後も冷静に吟味していくべき課題だが、わたくしには、現在の登場人物たちが主張している青写真には素朴な疑問が付きまとって仕方がないのである。

ベルリン陥落(小宮山)

アントニー・ビーヴァーの「ベルリン陥落 1945」は600ページにも及ぶ浩瀚な戦史ノンフィクションである。海外数カ国でベストセラーを記録したのは、今年が戦後60周年という歴史上のターニングポイントにあたるという事情もあるだろうが、この本自体のおもしろさも多分にある。戦勝国の論理だけに偏向せず、旧ソ連や第三帝国時代の各種の資料を丹念に調査している点や、事実を淡々と無味乾燥に綴るのではなく生き証人である人間の肉声やコメントを数多く記述に採用している点などは、まことに新鮮で、最後まで興味深く読み進めることができるのである。
●特に興味深く感じるのは、旧ソ連側の内部文書に基づく事実が多数あることと、東プロイセンからベルリンに至るまでの敗戦国としてのドイツの災禍についても多くの記述をしている点である。戦争というものの本質を考えれば当たり前のようでもあるが、赤軍による略奪やレイプなど戦勝国側の負の部分にあたる記述に必ずしも多く接したことがないわたくしにはかなり衝撃的である。また、日本が沖縄を除き大戦で経験しなかった本土決戦の終末的な姿が詳細に描かれている点にも、通俗的な解釈を超える驚きがある。西部戦線とは異なり十分に史実が明らかにされてこなかっただけに、東部戦線での事情にはまだ数多くの未知の領域があるように思う。
●旧ソ連や東欧という呼ばれる地域の共産主義勢力が崩壊したことで、この十数年思いがけず歴史の隠された事実に触れることがある。カチンの森の実行犯、スターリンの死因、ヒトラーの遺骸の行方など、数多くの事実が明らかになった。かつて鉄のカーテンと呼ばれた国が書庫に抱え込んだ秘密資料のうちの一部が明らかになるだけで、この60年間の世界の常識的な解釈を一変させてきたといえる。歴史上の点に過ぎない一つ一つの事実が明らかとなることで、現代ではその歴史を更に面として捉えなおす動きが出てきているようにも思う。
●ビーヴァーのこの本はその意味で東部戦線の実相を改めて捉えなおそうとする試みである。単に衝撃的な事実を訴求するという戦記ものの悪弊に陥ることなく、或る歴史の評価に踏み込もうという意欲に満ちた作品でもある。残念ながら新たな解釈とでもいうべき方向性をまだ見つけられていない感もあるが、この後に続く歴史家の手により新しい潮流が生み出されるのではという期待感は大いにある。時の流れを漫然と見過ごすことなく、密かに過去という時間にも新しい評価を加えようとし続けている人々とその著作には、今後とも注意深く目を通していきたいと、わたくしは考えた次第である。

大村益次郎36歳のUターン(小宮山)

大村益次郎司馬遼太郎の「花神」に登場するまで歴史上あまり名前を知られることのない人物であった。明治維新元勲として名高い人物たちからすれば、英雄としての物語を構成しにくい人物であったからだろう。司馬氏の歴史への着眼点の卓抜さがなければ著名な歴史上の人物とはなりえなかった人物であるといえる。
●元来村医者であった益次郎は大阪の適塾に学びオランダ語に習熟した結果、最後には塾頭まで勤めるほどの力量を持つに至る。才能を変われた益次郎は宇和島藩からの要請を受けて蘭学の講義を同藩で行うと共に、蒸気機関による洋式軍艦の製造にも携わる。また幕府の講武所教授のポジションをも手に入れる。オランダ語のずば抜けた能力が切り開いた学者としての栄達の道であるといっていい。
●ただ、その後の歴史的な偉業に繋がるのは、幕府の講武所教授よりも遥かに給料の安い長州藩のポストであった。その後幕末の討幕運動戊辰戦争において兵学者としてまた参謀役として多大な貢献をする益次郎だが、1860年に講武所教授の職を辞し長州藩士の道を選んだ時点では、幕府におけるポジションのほうが圧倒的に魅力的なものであったはずである。極めて合理的な知性を持っていた人物ではあるが、この時点での決断は故郷の地である長州への望郷とでもいうべき思いであったのかもしれない。
●人生の折り返し地点では人は様々な思いにとらわれるものだ。前半生で手に入れた様々な知識や経験を更に発展させていくという考え方もあれば、別の形式で生かす道を模索していくという考え方もある。しかし、理性的な部分での思考回路とは別に、情緒的な感情を多分に有しているのが人間というものである。故郷や家族への想いというものを決断の理由とすることも少なからずある。多分に合理主義を信奉する融通の利かない人物であるが故に、幕末の日本で大いに価値を出したこの男に、望郷とでもいうべき感情が芽生えていたというのは面白い話だが、反面ある種の親近感も感じる。益次郎の決断した年齢に限りなく近い三十代後半を生きる人間として、わたくしにもどこかこころの奥深い部分で共感と愛着を覚える次第である。

第三次オイルショックの懸念(小宮山)

●原油価格が上がり続けている。中国等の成長セクターでの消費量が急増している中で、今回の米国でのハリケーン・カトリーナの発生による石油関連施設に被害が出たことなどの事情があることが主な要因であるらしい。2002年に1バレル20-30ドル前後だった値段が、現在の水準では60ドル前後となり、2倍以上の値段になっている。世界の物価水準はこの間デフレ気味に進捗してきているから、実質的な上昇率は更に高いものであるといっていい。今後70ドル代になるという予想がまことしやかに語られているから、或る意味で異常事態である。
1970年代の二度のオイルショックを彷彿とさせる事態である。当時は第4次中東戦争イラン革命などの政治的要因が多分に影響を与えたが、今回は純然たる経済的環境の変化が大きいといえる。世界的な石油消費量の増大という状況と、先進各国での石油依存度が従来からそれほど大きな変化をしていないという事情の、双方が原因としてあるらしい。かつてのオイル・ショックほどの社会現象になってはいないが、当時のオイルショックを契機に省エネブームなどが起きたことを思い浮かべると、今回のこうした事態によって、再び代替エネルギーやエコ的アプローチへの関心が高まるのではないかという気もする。
●日常的に自動車に乗っているわたくしからすれば、ガソリンの値段に多大な影響を与える原油価格の高騰は他人事ではない。現在乗っている車を購入してからガソリン価格は20%以上上昇しているから、本質的には燃費の面で同等の改善を図っていく必要がある。マクロ経済動向のみならず、ミクロな経済生活の面でも、ハイブリッド化等の燃費向上の対策をいよいよ本格化すべきであると感じる昨今である。資源エネルギーと経済生活の関連が今後どのようなものになっていくのかについては、大いなる不安と期待感を持つ次第である。

魔女とカルトのドイツ史(小宮山)

●一日特に予定のない日曜日だったので、時間のかからない新書「魔女とカルトのドイツ史」を読んだ。カルト的な書籍には何やらこわいもの見たさのような感情がつきまとうが、本書は淡々と歴史的な事実を記述した教科書的な書籍であり、理性的な視点でカルトを学ぶためには適当な本ではないかと思う。特にドイツを中心に、少年十字軍魔女狩り、ワンダーフォーゲル、ヒトラー・ユーゲント等の熱狂的な陶酔とでもいうべき社会運動全般を、一通り理解するにはうってつけの本である。
●ただし、内容的に通覧とでもいうべき性格がありすぎて、自説があまりなく、どちらかといえば主要な学術的成果を紹介するにとどまっている点が何やら寂しく感じる本でもある。例えば、ハーメルンの笛吹き男に関するくだりなど、多くの文字で考察を加えているにも関わらず、阿部謹也氏の同名の書籍を超えるほどの読み応えはない。この手の新書本の弱点である、「毒のない啓蒙書」とでもいうべき無色透明なキャラクターが随所に感じられて、何やら残念な気持ちになる本である。
●お勧めの本とはいえないが、この領域で生産性高く知識を得ることを目的にする人には適当な本ではないかと思う。より深く、個別のテーマを探索する人には、この本の巻末にある参考書籍から研究テーマを深耕するのがよいだろう。本の内容以上に新書というスタイルについて深く考えた日曜日であった。