守銭奴スクルージのこと(ゲオルグ)

守銭奴高利貸しと呼ばれる人は、古来から小説によく登場します。古くはギリシア・ローマ時代に遡り、馴染みのあるところでは、モリエールやシェイクスピア、ディッケンズ、ドストエフスキーなど、現代にいたるまで欠くことのできない人物像となっています。
●興味深い点は、大抵どの小説でも悪魔のような描かれ方をすることです。返済期限は猶予しないし、夢物語のような出世払いには絶対応じない。 勿論自省などする人間としても描かれていません。これは多分に、悪役として描きやすいというのもありますが、金融業全般に対する古代からの庶民のマイナス・イメージの歴史があると考えるべきでしょう。
●その文脈からいうと、ディッケンズの「クリスマス・キャロル」に出てくるスクルージ老人はちょっと違います。 クリスマスに見る夢の中で、自分がなぜ守銭奴になり、結果として最後にどんな死をむかえるのかということを知り、改心するという筋立てになっています。守銭奴という存在まで肯定はしていませんが、少なくとも一人の人間として改悛のの機会を与えている点が、ほかの作品にはない点ということです。
●少々キリスト教の説教臭さがありますが、イスラム教でも悪魔の仕業と呼ばれているこうした人々に対して、比較的暖かい視線を向けているといえます。私は小学生の時にこの本を読み、スクルージ老人にどこか親しみを覚えた記憶があります。枕もとで読み聞かせてくれた祖母は、クリスマスだからもっと宗教的な意味で理解してほしかったのかもしれませんが、何かと親の希望に沿わないことばかりして怒られていた自分が、どこかスクルージ老人の姿と重なって見えたのです。
●クリスマスが近くなると、私は今でもこのスクルージ老人のことを思い出します。大人になってからわかったのは、自分が彼とそれほど大差ないようなことをしているのではないか、ということです。罪の意識といってもいいかもしれません。自分の利益ばかりを追求しているだけではないか、そのために人を踏みつけたりしているのではないか、そんなようなことです。
●よくよく考えてみれば、スクルージ老人の姿は、私だけでなく世の中の大半の人の姿でしょう。あくせく働けば、おのずと起きることです。懸命に生きてきたつもりなのに、どこかで心に咎めるようなことをした気がする。忙しさの中で忘れたつもりになるが、クリスマスになると思い出してしまう。自分も立派な悪人なのだと自覚する、それが普通の人の姿なのだということです。
●今年もクリスマスまで残り僅かになりました。仕事もおおかた片付いたので、遅ればせながら私も昨日から休暇に入りました。 今年もこころのどこかにしっくりしない部分のある私は、スクルージ老人のように、やはり仕事をやめるべきなのだろうかと、また深く考えております。クリスマスキャロルは未だに愛読書であり、スクルージ老人は、私のできない何かを成し遂げた、先達なのだと、今では尊敬の眼差しを向けております。

奇書・家畜人ヤプーを書いた沼正三は誰なのか(阿房)

●「家畜人ヤプー」というタイトルの本に出合ったのは大学生時代ですが、今から考えてみても奇書中の奇書といえばこれにつきるのではないでしょうか。内容も内容ですが、著者の沼正三なる人物も最後まで秘密のベールに包まれたままという、これまた最後まで謎の尽きない作品で、ジャンルは違いますが、東洲斎写楽やシェークスピアと同様に、本人探しはそのうちドキュメンタリーにでもなるのではないでしょうか。
● 話は替わりますが、実はこの阿房、結婚を機に、この奇書を手放しました。理由は簡単で、このようなマゾヒズムや人体改造など、性的倒錯者と妻に誤解されるのを恐れたからであります。形は違うけれども、沼正三が最後まで実名を明かさなかったのも、同様の理由なのではないかと、少々ピンときました。本を古本屋に持っていいきながら、たぶん沼正三も、従来の印象を壊したくない、もしくは悪い影響があると考えたんだとすると、噂に上がっている沼正三容疑のかかった、複数名の容疑者について改めて検証してみたくなりました。
●まず、自分が沼正三だと告白した天野哲夫という小説家がいます。この人の場合、そもそもご身分からして、このような奇譚をかくことそのものは、本業なのですから、問題はないはずです。その辺を見透かされて、自分でもそれらしく、自分だけじゃありません、などと述べてしまったので、羊飼いの少年のように扱われてしまいました。彼単体でこのような奇異な大作を仕上げることは不可能だったのではないでしょうか。
●次に本命とみられている、裁判官の倉田卓次氏。お堅い仕事をしていた割に、SF小説愛好家なので、最も疑わしく思われている人物です。しかしちょいとひっかかるのは、着想やモチーフの面では理解できるのですが、小説全体の構造や猟奇的知識を、この裁判官が持っていたかということです。思い込みを形に変えて、大御所的な知見を織り交ぜていくというなら、やはりその道のプロに協力を仰いだのではないかということです。
●この点、前述の天野氏は小説家の部分はわかるのでですが、猟奇的知識の部分はピンときません。関与が噂されている澁澤龍彦三島由紀夫の両大御所なみの知見が入ってこなければ、このような書物ができることはなかったし、そもそも最初に出版された奇譚クラブという雑誌から、矢継ぎ早に単行本の出版にこぎつけるという手際の良さも説明がつきません。
●社会的に秘密にしたいという衝動からいうなら、明らかに裁判官の倉田氏が本丸です。しかしダミーとしてカミングアウトした天野氏や、澁澤・三島両氏が途中から入れ知恵をしたというのが、そういう意味で、実態だったのではないか、私にはそう思えます。阿房流に例えていうなら、アガサ・クリスティー氏の書いたサスペンス「オリエント急行」と同様、関係人物全員が犯人なのではないかということです。さてこの奇妙な犯人を捜す60年越しの物語を、いつだれが完結させてくれるのか、個人的には最も楽しみにしています。

「日本産金史」って・・・5万円もするじゃないですか~(阿房)

●昨日は日曜日なのに仕事をする羽目になったので、気分転換もかねて、知人と銀座のナイルレストランに直行。なんたって平日は混雑して入れないお店なので・・・。注文は勿論ムルギーランチ。そのあとは、休日勤務のご褒美に、久々にカフェ・ド・ランブルへ。
●ランブルのコーヒーは本当にうまい。 決してオサイフにやさしい値段ではないが、女房と子供一式を質に入れてでも、飲みたくなる味だ。東京広しといえども、ここを超える味を阿房はまだ知りません。なんちゃらホテルやらなんちゃらグルメがどのように点数をつけようと、味のわかる紳士・淑女なら東京でこれ以外のコーヒーを飲むべきではないと考えております。
●同行した知人にれば、この味に匹敵するのは、南千住のバッハという店ぐらいしかないらしい。それはいったことないので、信じるしかありませんが、南千住ような渋い場所の商店街にあるとなれば、阿房の出番ではありませんか。また若禿げカメラマンのA君を連れて出撃しなくちゃなりません。
●脱線しすぎました。今日は金のお話です。カネじゃありません。”キン”です。先週ちょっとしたことで未だに金堀をしている人に会って話をする機会があって、最近気になった希少本の話なんかをしておりました。その中で、伊豆の大仁金山含めて金堀の歴史をまとめた本があるっていう話になりました。題名が「日本産金史」で著者は石川博資氏。「ホラ、これ!」。なんだ、この金堀のオジサン、さんざんもったいぶって話していたのですが、自分のカバンの中に入っています。「この前何とか手に入れたんだけど、うれしくてさ。」という具合。
●ところがここからが悲劇の始まり。急速に気温が低下した影響で、鼻かぜモドキにかかっているこの阿房。うっかり、とんでもなくでかいクシャミをしてしまいました。 正確にいうと、クシャミした瞬間、ついでにトマトジュースの入ったグラスを倒して、その希少本が真っ赤に染め上げられちまうことに・・・。青い顔をして沈黙するこの金堀オジサンの顔を黙ってみていられなくなったこの阿房、我慢できずに「弁償させてください。」といっちまいました。
●頭の中にあった計算では、どうせこのオヤジのいう希少って、せいぜい五千円くらいの話だろうとたかをくくっていたのですが、後でアマゾンでチェックしたら、一番安くても5万円也。いやあ青くなりました・・・。とはいえ、今更言っちまった話を白紙にする勇気もなく、涙を飲んで五万円のボタンをポチリ・・・。自分を慰めるために、真っ赤になった方の産金史 で、日本の金の長い歴史を勉強し始めることにしました。年末までの長い時間がオカネじゃなくて、”キン”のほうでいっぱいになりそうです。

亀山郁夫氏に聞く弱者の傲慢さとドストエフスキー(浦崎)

●以前東京外大におられた亀山郁夫さんは今は名古屋外国語大学に移ったらしい。経歴や肩書きはともかく亀山さんの翻訳するドストエフスキーは、なかなかよかった。いろいろ批判もあったが、日本語の現代語訳としてリニューアルされた表現は、積年のロシア文学の翻訳ものに対する私の鬱憤を十分にはらしてくれた。領域は違うが、ロマン・ロランやディッケンズ等もお願いしたいくらいである。
●前座はともかくとして、久々に亀山さんがテレビに出演すると聞いたので、NHKの教育テレビの番組を視聴した。再びドストエフスキーに関するものだが、今回は罪と罰を取り上げている。亀山さんの栃木弁を髣髴とさせる語り口もなかなかの好みだが、そのなんともふわふわした口調から”弱者の傲慢さ”というちょっと強烈な表現を聞くのも、なかなか耳障りがよい。世が世で私が学生であったなら、昼食後のけだるい時間にうとうとしているところに、はっと目の覚める思いをしていたのではないかと思う。
●少々脱線するが、栃木弁を初めてきいたのは十年ほど前である。決して特殊な方言ではないと思うが、あの特殊な音階をじかにきくと、その場が株主総会であれ、取締役会であれ、猛烈な睡魔に襲われる。仮に自分が死刑判決を受けたとしても、裁判長が栃木県人であるなら、刑の執行を受けるまでも泣くあの世に旅立てそうな気がする・・・。従って、栃木県の皆様に周囲を囲まれるような会議では、一日炭水化物を食べないことや、前日過剰なまでの睡眠をとっておくことを、自分に義務付けている。
●話をもとにもどしましょう。弱者の傲慢さというのは、罪と罰の主人公ラスコリニコフの思考回路を指しています。不幸のどん底を極めたラスコリニコフは間違いなく弱者です。弱者であるから、金満な貴族階級のような傲慢さは存在しないということではなく、ある意味弱者であるからこそ抱く傲慢さが存在するという、ドストエフスキーの根底をなす認識です。作品中では、ラスコリニコフの、弱者であるから金貸しの老婆を殺すのは正義である、という認識をさしています。
●この手の弱者の思考回路というのは、ある意味で、生まれながらにして金満な資産家以上に、恐ろしいものです。幼児期からユダヤ人に被害者意識を抱いてきたアドルフ・ヒトラーのような人物だけでなく、東大に合格できできなかったものの一代で会社を築き上げた、上場企業の社長のような人にも、存在する感情です。決して否定できる感情ではありませんが、今度は加害者の苦しみを味わうという不幸に、自分自身さいなまれることになります。
●人間は自分が強者になったとき、弱者に対して害を加えていても、それが弱者の時代の苦痛を根拠に正当化できるなら、簡単に罪を犯す存在です。私にそんなことを教えてくれたのは、多くの加害者としての反省、そしてドストエフスキーであるといっても過言ではありません。亀山さんのいう”弱者の傲慢さ”という言葉を聴くたびに、自分が被害者・或いは弱者になったときに、自分を深く戒めることにしております。

あなたが観るべきラブ・ストーリー(浦崎)

●年末になるとラブストーリーを観たくなる。それは私も世の中の紳士淑女と同様だ。年配の人とそういう話をすると例外なく自分たちが若い頃に恋人と観た作品を紹介するから、若い人にはちっとも面白くないし、逆に年配者は、保守的だから良質なラブヅトーリーを楽しむことから遠ざかってしまうことになる。これはよくないと最近よくおもうようになった。そういう理由で今回は、ここ二十年ほどの間に公開された作品の中から、シニアも楽しめるラブロマンス映画を紹介したい。ちなみに、シニアも楽しめるという判断をした基準だが(たぶんに独断と偏見であるにしても)、トレンディー・ドラマのようにプロットが曖昧で、普遍的価値がよく見えないものは除いて、世代を問わず価値を感じられそうな作品を掲載してみることにする。年末から新年にかけて良質な番組に出会えないと思う人々、TV番組はNHKしかみないという人々に是非お勧めしたい。

●”世界にひとつのプレイブック”(Silver Linings Playbook:2012年公開)
精神障害に罹患した男女がダンスを通じて失った感情を取り戻す物語。障碍者の特質をよく理解した斬新な脚本で、痛みを乗り越える主人公に深い共感を覚える。
●”君に読むものがたり”(The Notebook:2004年公開)
痴呆症にかかった妻に、自分たちの出会いから結婚にいたるまでの物語を話して聞かせる老紳士の物語。昨今の米国文学の特徴として、基本的な骨格がしっかりしている割にプロットが卓抜である。痴呆症という病気を深刻な病気ととして取り上げず、カジュアルな背景として扱う作者のセンスがまことに洗練されている(原作:ニコラス・スパークス)。
●”キルトに綴る愛”(How to Make an American Quilt:1995年公開)
キルトを縫い上げる女性たちの物語を、順番に編みこんでいく物語。奇抜なプロットではないが、各々の女性たちのラブストーリーがそれぞれの個性を持ち深く心を捉える。編みこまれる複数の物語が一枚のキルトのように仕上がっていく様は、ホイットニー・オットーの手腕の高さを感じさせる。
●”ワン・デイ 23年のラブストーリー”(One Day:2011年公開)
23年間のラブストーリーを毎年訪れる7月15日のカレンダー形式で綴る作品。女性主人公の交通事故死という悲劇的な最後を、深い愛情の糸で芸術的に縫い上げている作品(デビット・ニコルズが自ら脚本まで作成)
●”マディソン郡の橋”(The Bridges of Madison County:1995年公開)
紹介するまでもなくロバート・ジェームズ・ウオラーのベストセラー小説の映画化作品。原書だけではわかりにくい”橋”と周囲の風情が映画の中にうまく再現できている作品。極めてシンプルなストーリーだが、カメラマンであるロバート・キンケイドとメリル・ストリープ演じる主婦の、禁じられた4日間の恋を、情感高く描き出した作品。脚本のセリフの入れ方が、原作を超える繊細さで作られており、そのレベルの高さは今なお色あせないと感じる。
●”地上5センチの恋心”(ODETTE TOULEMONDE:2006年公開)
現代フランス劇作家の巨匠エリック=エマニュエル・シュミットの監督作品。主婦オデットの小説家への憧れと恋をコミカルタッチに描き出すラブストーリー。エリックの芝居で研鑽した演出手法が映像美として盛り込まれており、極めて視覚性が高い。重厚な人間の感情をライトに触るが故に、むしろ濃縮された人間の深層に触れる何かを感じる。現代フランスの良質な何かを知りうる作品。
●”ビフォア・サンセット”(Before Sunset:2004年)
リチャード・リンクレイター監督の作品。かつてウィーンで出会った恋人がパリで再開する物語。作家のサイン会場で作家と読者という立場で再会し、次のサイン会の場所へ旅立つ飛行機に乗り込むまでの間、パリの街をあるきながら会話を交わす二人の恋人の姿が、簡素だがまことに印象的である。脚本らしい脚本を作らず、撮影現場で出演者たちのアイデアを交えながら作るというだけあって、会話の自然な形がきわめて魅力的である。

以上。今回はこの6作品をご推奨する。私自身良質な物語に常に飢えている部分があるが、常日頃忙しい生活を送っている方々からのリクエストもあり、今回恥を忍んで私の好みをご紹介することにした次第。なお、ラブストーリー以外のジャンルや、海外文学・芝居の類についても、独断と偏見で差し付けなければ積極的にご紹介するつもりなので、ご要望などあればお寄せいただきたい。

エリック=エマニュエル・シュミット作品を堪能する(イレナ)

●最近一番好みの劇作家は、エリック=エマニュエル・シュミット(Eric-Emmanuel Schmitt)です。パリに行くたびにこの人の芝居を思い出しますし、ニューヨークやロンドン・東京で観劇したり、映画を見たりしても、この人の作品に比べるとちっともおもしろくありません。要するにすっかりエリックの虜になってしまっているのです。
●それほどお金をかけているわけでもなく、プロットが奇抜というわけもないのですが、どの作品もとても斬新な印象を受けます。幸福感に満ちた芝居の組み立ての中に、人間の感情表現を微細に表現しつくそうという作家の魂があるのを感じるのです。
●その内容の卓越さは芝居だけでありません。映画作品もすばらしいの一語に尽きます。日本でも公開された”イブラヒムおじさんとコーランの花たち(原題:Monsieur Ibrahim et les fleurs du Coran)”や”100歳の少年と12通の手紙(原題:Oscar et la Dame rose)”、”地上5センチの恋心(原題:Odette Toulemonde)”は、自分のiPADの中に入れて持ち歩くぐらい好きな作品です。
●先日飛行機の中で”地上5センチの恋心”を視聴していると、隣にいたイギリス人のご婦人から、”私もエリックは大好きよ”と話しかけられたことがありました。主演のカトリーヌ・フロ(Catherine Frot)に目がいってしまいそうになるのですが、エリック特有のダイレクションはパリやロンドンでも大人気なのだそうです。私自身もハリウッド作品のように、おれでもかとお金をかけたものや、日本でしか理解されないガラパゴス作品のようなものに比べて、落ち着いて眺められる普遍的価値を感じます。
●年末から新年は実家への帰郷をかねてまたパリに出かけるつもりです。エリックの作品をどこかで観られないかとあちこちインターネットで調べているところですが、今からワクワクする気持ちを抑え切れません。世界中から帰国してくる古い友人たちとの交歓も楽しみですが、エリックの芝居を見るのもまた私の人生の糧です。場合によって二月くらいまで日本には帰ってこれそうにありませんが、たくさんお土産話を持ち帰る予定です。

アントン・チェーホフの賭け(浦崎)

●チェーホフの小編に”賭け”(英訳:The Bet)という小説があります。死刑と終身刑のどちらが人間にとって過酷かという論争をする、富裕な銀行家と弁護士の非現実的な賭けの話です。内容は、15年間の自由のない監禁生活を弁護士が過ごすことができたら、銀行家は200万ルーブルを支払うというものです。
●賭けは成立し弁護士は15年間の監禁生活を送ることになります。そして銀行家は5年ともたないと思っていたにもかかわらず、とうとう15年目を迎えます。盛時の勢いを欠いて既に資産が大幅に減少していた銀行家は、200万ルーブルを支払って破産しないために、最後の日を目前にして、弁護士を殺そうとします。
●しかし弁護士は銀行家に置手紙を残して、賭けの成立を前にして脱走してしまいます。弁護士は自由をはく奪された15年間に膨大な書物を読み、その中で森羅万象を悟り、人間の愚かなるさまを軽蔑するに至ったのです。事実上賭けに勝ったにも拘わらず、当初欲求を覚えた200万ルーブルを、侮蔑の意味において放棄したと弁護士は手紙の中に綴るのです。
●非常に奇妙な小説です。賭けの結果は実質的に弁護士の勝利だったと思います。従って終身刑は死刑よりもやはり”まし”だったということで物語を締めてもおかしくはありません。しかし大団円は賭けの結果そのものではなく、寧ろ人間の無意味に果てしない欲求の深さへの絶望という形で締めくくります。要するに自由か不自由かという命題の設定以前の問題として、原罪的な人間社会に対する失望が表現されているということなのでしょう。チェーホフらしいニヒリスティックで意外性のある物語です。
●私が初めてこの小説を読んだのは中学生の時のことです。最初はさっぱりピンと来なかった記憶があります。それが最近Project Gutenbergを頻繁に読むようになり、昨晩久々に目を通したというわけです。印象としては、この逃走した弁護士もやはりある種の不幸な存在であると映ります。人間は愚かには違いないにしても、愚かさの中にあって悲喜交々の振幅を過ごすことそのものが人生ではないかと思うからです。弁護士の思考はある意味で神の視点に立っています。神(あるいは日本的にいえば”上”)から見れば愚かなりといえども・・・という部分に、世の中の大半の人生の物語があるような気がしてなりません。

奇書「大観園の解剖」を読む(阿房)

●旧満州国におけるアヘン普及の状況を知るために、類まれな奇書”大観園の解剖”を読みました。アマゾンの中古書籍で2万円近い値段で取引されているものですから、かなりの勇気をもって購入したのですが、読んでみるとその希少価値の高さには納得できる部分があります。
●旧満州国ハルピンに存在した魔窟・大観園を詳細に記すこの書籍は、中国共産党によるアヘン根絶までの中国社会の問題点を指摘することを目的に書かれたということです。しかしその内容は、巻頭の十枚程度の写真だけでも酸鼻を極める内容で、現代日本人からしますとなかなか正視しにくいものでした。
●アヘン吸引する木賃宿、売春宿などを含め、個別の店の名前まで精密に当時の状況を写し取った地図があるということも驚きですが、実際にその木賃宿や売春宿に宿泊し、中毒患者たちと接するばかりでなく、毎日のように中毒死していく人の死体が打ち捨てられる様を観察している、著者の想像を絶した立ち位置にただ驚かされるばかりです。貧しいからということでなく、現実世界から逃避できるアヘンのために、殺人や売春など悪徳のかぎりをつくすというこの街の恐るべき実態は、冷静に観察するということは私にはとてもできないからです。
●特に、中毒死した死体から、金目のものと交換できそうな服や時計などが知らぬうちにはぎ取られ、道の真ん中に打ち捨てられているという状況で、何食わぬ顔で人が道を歩いている光景を冷静に眺めるとうのは私にはとてもできそうにありません。ある意味人間社会のおぞましさというものの現実なのでしょうが、残酷な現実からひたすら遮蔽されている現代社会では目にすることができないものですし、そうした身ぎれいな社会に常住している人間からすると目をそむけたくなるものであるのです。
●ただ反面、不自然に人間の本質的な悪、或いは汚い腸とでもいうべきものから目を背けている現代に対して、何事かを語っているものでもあるように思います。人は弱いもので、簡単にアヘンの虜となる。そのためには人は簡単に人を殺すし、中毒死するものが日常化すれば、人の感性はその異常な状態を異常とも思わなくなる・・・、そういう汚い人間の本質を目にしなくなった現代は、反面非常に偽善的であるようにも思えるのです。
●現代は戦争や過去の罪などについて、あまりに抽象的な議論をしているのかもしれません。ピストルの弾一発で血も流さないで死ぬ俳優を見すぎているのかもしれません。死ねば金目のものはすべてはぎ取られ、獣のように道に捨てられる。死体は数日で腐乱し、その臭気は町中にあふれるというのに、そういうことはテレビや映画では映しだしません。綺麗に描きすぎる上品な現代のメディアでは知りえない、生臭い現実を直視してこそ、人間自身の学びがあるのではないかと思うのです。私自身もその現代人の一人だったということがこの”大観園の解剖”という本を読んでみて、改めてわかったということなのでしょう。

大観園の解剖

ヴィクトール・フランクル著”夜と霧”ヲ再読ス(浦崎)

●ヴィクトール・フランクルの”夜と霧(Man’s Search for Meaning)”を久々に読んだ。東北大震災以後ひそかなブームになっているとの話を聞きふと再読してみたい気分になったからである。初めて現在のポーランド領内にあるアウシュビッツ収容所を訪れた際、なんとなくザックの中に入れて電車の中でひたすら読んだ記憶がある。二十年以上も前のことだ。
●あの時代の感想は、ソルジェニーツインの収容所群島とどこか重なる部分があるなという程度のものだった。たまたまシベリア鉄道でモスクワへ行き、そこからワルシャワを経てクラクフへというルートで移動していたからかもしれない。大陸の冷厳な気候の中で人が生き抜くということはいかなることかということを懸命に想像してみたが、現実世界のどうしようもない壁のようなものはまだ肌で理解していたとは言い難かった。
●さて本題である。この精神科医の文章の中で、以前心を動かされなかった部分で、今回非常に感銘を受けた箇所がある。囚人の中で只管続く強制労働の中で生きる希望を喪失しつつある囚人二人に対して、フランクルが語りかける部分である。フランクルは、人生に何かを期待するのではなく、人生があなたたちに期待するもののために生きよ、という。少々難しい表現だが、人生というものに何かを期待するという心の動きでは得られるものはないが、自分ではない外部から期待されることを行うことに人は希望を見いだせるということである。
●学生時代になんとなく読み飛ばしてしまって、今何かを感じるのはやはり現実社会で翻弄されてきたからかもしれない。デカルト的な合理性や資本主義的な欲望のメカニズムに忠実に生きることを教わり、その通りに人生を送ってきたが、本質的にそういう思考回路で得られるものは常に不完全な満足感に終わった。世の中で頂点というべき場所に立ってみても一向に満足感はなかったし、欲望には際限がなかった。恒常的に不完全でゴールは一向に見えなかった。そんな記憶ばかりである。ある意味強制労働をさせられていた囚人たちと寸分違いがないといっていいだろう。
●従って読み進むうちに囚人二人の姿が自分自身のこれまでの窮屈な姿と符合する部分があった。故にフランクルの言葉が同様に胸に響いた。はっきりと言葉では表現しにくい問題だが、人生そのもの、あるいは社会の必要性に準じて素直に生きればよいではないかという思いは一層強くなったといっていい。人生を半分くらい消化し、さてこれからいか様に仕上げをしていこうかと考える人に、このフランクルの本は大いなる意味を与えてくれるように思う。再読をおすすめしたい一冊である。

時にヒースクリフを思い何がしかの共感と寂しさを覚える(浦崎)

●古い話ですが、傷つきやすい少年時代によくエミリー・ブロンテの”嵐が丘”を読みました。ヨークシャーという地域にいったこともないのに、そのたびにこの作品に登場するヒースクリフという主人公が荒野に立つ夢をみました。時に厳しい表情を浮かべ、静かに悲しい眼で嵐が丘を一瞥する姿です。
●愛した女性が上流階級の男性と結婚し、衝撃を受けて姿を消す。何年もたった後、裕福な紳士として再び嵐が丘に帰ってきたヒースクリフは復讐の虜となり、かつて愛した女性やその関係者たちに報復を行います。結果として全ての復讐を成し遂げたものの、かつて愛した女性キャサリンの幻覚と憎悪のために狂死することになります。酷く悲しい物語です。
●あれこれ世の中の雑音や価値観の衝突が聞こえはじめる少年時代というのは、得てして孤独です。ちょっとした出来事で落ち込んだり、孤独感に苛まれる。そんな心持ちで寝床についてふとヒースクリフのことを思い出し、自分自身とどこかで共鳴する部分があるような錯覚に囚われるのです。ただ不思議なことにこのヒースクリフの、全ての悲しみを憎悪の感情に変えていく部分をみて、反面何か一抹の悲しみも感じていました。憎悪で解決せざるを得ない孤独や悲しみというものは、やむをえないものだったに違いないにしても、最後は自分自身を苦しめる毒薬になるのですから。
●そういう意味で、私はヒースクリフほどの人間ではなく、寂しさや悲しみの類をもうちょっと洒脱かつ軽妙に、また相対的に眺めて昇華させるタイプの少年だったと思います。例えればムーラン・ルージュで独り作品のスケッチをするロートレックなどと同質のもので、憎悪などという感情よりは、卑小で愚かな自分も等身大に眺めてしまうといったところでしょうか。しかし、そんな自分であるからこそなのかもしれませんが、そのヒースクリフの鬼畜がごとき復讐の様というものに対して、限りない共感と悲しみを同時に感じたのだろうと思います。
●著者のエミリー・ブロンテがこの作品を書いたのは彼女が29歳の時のことです。結核でわすか30歳でこの世を去る、ほぼ一年前の出来事です。私自身を含めて数え切れないほどの読者の共感を呼んだヒースクリフが”嵐が丘”という作品の主人公として評価の対象となりうるのは、彼女の死後のことです。未だに圧倒的な存在感で、時に私の夢の中に現れ、寥とした横顔を私に向けるヒースクリフは、ある意味、作中の登場人物であることを超えて、私自身と合致しているといっても過言ではありません。ブロンテの小説の技量というだけでなく、ある特別な力がこの作品と主人公に宿っていると感じるのは、私ばかりではないでしょう。