超弦理論とM理論に熱中する(浦崎)

●学生時代に数学を途中で放り出した過去もあって、特に理由もなく最近数学を楽しんでいる。ちっとも役に立たないという悪友たちの囁きと、これといって熱意のない教授陣に囲まれていた私は、数学の世界の本当の興味深い一面を理解していなかったといっていいだろう。そんな私が今頃になってのめりこむ羽目になったのは、エドワード・ウィッテン氏の記事を読んだことに始まる。
●この人物の唱えるM理論というのは、宇宙の重力次元が11にも上るという。現在我々人間が認識できる次元は4つしなかないが、宇宙の構造と成り立ちについて理論的に計算をしていくと、その数は11になるというわけだ。少々物理に造詣の深い知人にどのようにこのウィッテン論文の骨子を理解することができるかと尋ねると、そもそもアインシュタインの相対性理論から勉強しなおさないといけないということがわかり、かなりの時間を使って相対性理論を勉強した。土日だけだが数ヶ月間もかかってしまった。
●ようやく相対性理論の雰囲気がつかめたところで、さて今度は超弦理論である。シュワルツとシャークが最初に発表した英語の論文を探してきて少々読んでみたがさっぱり理解できない。根本的に相対性理論と学問発展の経緯が違うから、これはまた一から勉強しなおさないといけないということに気がついた。再び数ヶ月間を掛けて、アメリカ人の友人から紹介してもらった超弦理論の本を勉強することになった。物理学科か数学科の教授でも家庭教師に雇えればよいが、お金と時間の関係上そのようなことは望めないので、のんびりと本を読み、数え切れない計算用紙のくずの山を作ることになった。
●結局M理論の論文を読み始めようと思ってから丸々一年以上の歳月がかかってようやく、ウィッテン氏の話についていけそうな気がしてきた。その間あまり文章も書かず、仕事も適当にやっていた。あまり余裕のある生活を送っているわけではないが、数学と物理学があまりに興味深く、結果的に引きずり込まれたような印象がある。多くの天才たちを発狂させてきたこの分野だが、その難易度の高さを超越して、果てしない興味をかき立てるものだということは疑いないだろう。
●自分の能力がまったく大したものでないということを、これでもかと理解させられる時間ではあったが、これからまた数年の時間をかけてウィッテン氏の論文をひとつひとつ読んでみたいと思っている。当面土日の時間が中心になるだろうが、仕事が一区切りついたら、来年の春先あたりウィッテン氏の参加する学会にでも出席してみるのもいいなと、現時点では考えている。

神の数式に興奮(隈川)

●昨晩のNHK特集・神の数式に大変興奮いたしました。数式をあれだけ並べられると少々辟易してしまうところですが、大変わかりやすい説明でした。この分野は全くの素人である私ですが、今の仕事をすべて投げて捨てでももう一度数学か理論物理学の世界に飛び込みたい気分でした。
●特に超弦理論を初めて提唱した人物の一人、ジョン・シュワルツ(John Henry Schwarz)が登場し、一般相対性理論を含めて、宇宙の成り立ちに関する根源的な不可解に挑戦してきたこれまでの時間を、自ら説明している部分には、大きな感動を覚えました。
●加えて、まだまだ残る超弦理論が解き明かさなければならない多くの課題について、自分の人生の中ですべてを消化できないかもしれない。しかし証明できてしまったとしても、それはそれでとても寂しい・・・、という感情を吐露するセリフには、難問に挑戦し続ける科学者に対して大いに尊敬の念を持ちました。
●しかし、サイエンスにおける難問というのは、恐ろしいものです。シュワルツの共同研究者のシャーキーは道半ばにして精神を病むし、理論自体の現実的証明が困難であるという理由から、多くの科学者から猜疑心を持たれるという苦痛は、平凡な人生を歩んでいる私からみると大変恐怖を覚えます。ただただその孤高の研究姿勢に頭が下がるばかりでした。
●私も人生まだ半ばです。シュワルツたちの業績からすれば何もしていないに等しい人生ですが、解決できるとかできないとかそういう小さなことにいちいち悩むよりは、さっさと難問に取り組んで血の汗をかくほうがよいではないか。私はふとそんなことを考えました。

生物学・植物学者たちの思考回路(巌野)

●命もいらず、名もいらず・・・という有名な一説は、庄内藩士が維新後に書いた南洲翁遺訓の三十条にある言葉です。西郷隆盛が発したというこの言葉は、多くの日本人の人生訓であるようで、私が学生時代にアルバイトをしていた公益法人の理事長(元官僚)などは、仕事もそっちのけで西南戦争における西郷の言葉などを調査・研究していたぐらいです。現実世界のよく深い人間社会を知れば知るほど西郷のこの言葉というのは生きてくるのだと、その理事長は私に語ってくれたことがあります。
●明治時代の一つの気分として、こうした士大夫論が語られまた実践されるというのは、非常に素晴らしいことですが、反面ちょっと肩に力が入りすぎて、私のような怠け者には追従が難しいなとも思います。こうでなければならないと考えるよりも、興味の赴くまま本質にのめり込み、それ以外のことには全く関心を抱かない、といったタイプの人物の方が、個人的には人間として同質の匂いを感じるのです。この類の人々に共通するのは、そもそも本質として、元来命にも名前にも興味がないということでしょう。
●この時代の人物としては、南方熊楠と牧野富太郎があげられます。ともに幕末の時代に生まれてひたすら生物学・植物学を中心に研究にまい進した人物です。大抵の歴史上の人物は経歴と数少ない著作を完読すれば、おおよそその人の人生の全体が理解できてしまうものですが、この二人に限って言えば、読んでも読んでもその研究の奥深さに追いつかないという印象を持ちます。多くの志ある若者が悩む人生論とは無縁であるかのように、研究に没入し、結果として浩瀚な書籍・書簡・研究成果以外には、つまらない学歴・栄誉・地位といったものに拘泥していなかったようです。
●人生の目標をどこにどのように据えるかという問題に多くの人は悩みます。しかしよくよく考えてみると、世間的にこうすべきではという常識を基準としたときに、現在いる場所からの距離が大きいといった類のものが多いのが事実です。そもそも何をするべきかということは、実は殆どの人間には生まれたときから備わっているのではないかと私は考えています。世間がいう常識と処世術を学ぶよりも、自分自身の中にある、南方や牧野のような本質的興味に目を向けていくことが必要ではないかと最近ふと考えてしまう次第です。

何故数学者は難問を解くのか(浦崎)

●若いころに数学の勉強を中途でやめてしまったせいか、最近ふと数学の教科書を紐解くことがあります。勉強の目的を非常に功利的に見すぎてきた反動からかもしれませんが、純粋に興味だけに基づいています。
●特に関心を持つのは素数の問題です。あの無秩序に見える素数の配列に特別な意味があるのかどうかという素朴な疑問にこたえてくれる答えというのが、オイラーの時代から250年以上経過してなお未解決であるという事情も一層ロマンチックに見えてきます。いわゆる”リーマン予想(Riemann Hypothesis)”です。
●ベルンハルト・リーマンが1859年に数学上の命題として設定したこの問題は、”ゼータ関数のゼロ点は、すべて1/2の直線上に並ぶ”ということを証明するという言い方であらわされますが、簡略にいうと素数の並びかたの法則性を証明するということで理解してよいでしょう。オイラーやリーマン、ガウスなどの数学界の巨人が挑んでなお解決せず、計算機が登場する20世紀に至ってなお証明が未了であるというのは、私のような素人ですら一度証明に挑んでみようかと思い立つほどの魅力を感じさせます。
●ただ、この難問については一抹の不安も与えます。こうした数学の難問は多くの数学者を狂気に陥れるものでもあるからです。エニグマ暗号期のロジックを解明したアラン・チューリングや、経済学でノーベル賞をとったジョン・ナッシュなどの数学者たちが、直接の原因かどうかはわかりませんが、統合失調症や自殺するなどの結果を招来しているというのは、非常に不気味です。未解決に終わるという空虚さが人間を苦しめるというのはわかるのですが、極めて優れた数学者であるが故の衝撃の大きさというものは、精神に支障をきたす水準にまで達するということは、凡人である私には測り切れない奥深さが感じられます。
●未解決の難問に挑む数学者たちには、”そこに難問があるからこそ挑むのだ”という素朴なレベルで共感は持つにしても、命がけで挑むかといわれると、凡人にはそこまでは追従が難しいといっていいでしょう。カジュアルな関心で眺めている人と、プロフェッショナルおといわれる人の差、凡人と天才の差とでもいうべき差がそこにはあるのかもしれません。ただなぜ彼らが、あらゆる功利主義的な人生の目的論を超えて、難問に挑もうとしているのかということは、個人的には理解できる部分が大いにあると考えています。

リサ・ランドールという知性(永野)

●物理学が最も苦手だった私がいうと、全然説得力がありませんが、この分野で最も気になる知性は、リサ・ランドール博士です。大学を卒業してから勉強しなかったことを悔いて、高校時代の教科書から物理の勉強をやりなおしていた時期に、ふと目にしたのがこの女性博士の本でした。
●写真でみるように結構な美人であるというのも魅力の一つですが、それ以上に彼女の5次元理論に関する本が、非常にわかりやすく、面白かったというところに核心があります。正直言って、論文などを見ても難解な方程式などで私のような素人は入り口で挫折してしまうのですが、彼女が書いてくれる本の中では、そういう描き方ではなくて、理論で証明された異次元世界の構造を、一つの物語のように示してくれるのです。
●そういう意味では、とてつもない天才の理論をその証明能力で知るというのではなくて、描き切る文学的構成力の方に興味を持っているといったほうがいいかもしれません。とはいえ、彼女の本が売れる理由のいくばくかは私には理解できました。一冊の絵本を読むように、彼女の本を手にとってみるのも悪くないかもしれません。