耳元で囁くパブロは天使なのか悪魔なのか(イレナ)

●子供の頃よく不思議な夢をみました。不思議という意味は、全く自分自身に関係のない見ず知らずの人物や風景が登場するということです。アフリカやアジアの見知らぬジャングル、氷に閉ざされた南極海のような場所から、アラビア半島の夜の砂漠など、凡そ海外にも一度も言ったことがない十歳に満たない女の子が想像することができない光景でした。
●しかしある時から夢を見なくなりました。ボーイフレンドのことや家族のこと、切羽詰った状況にあった仕事のことでさえ全く現れず、頭の中にあるスクリーンはずっと真っ暗でした。そのような状況が10歳から20年程度続きました。
●それが昨年のことです。寝苦しい熱帯夜明けの早朝、目覚める直前に突然耳元で囁く声を聴いたのです。その声を聴いたから目覚めたのか、目覚めた瞬間に夢の一コマがプレイバックしたのかは判然としませんでしたが、”Pablo, Pable, Andalucia ..”という男性の声だけが、明瞭でない意識の中に刻み付けられました。映像のない音声のみでまるで聴覚テストを受診しているような感覚です。
●翌日仕事をしながら考えてみましたが。パブロという名前は男性のスペイン語の名前で、私の知人にはいませんし、故郷ポーランドにも全く関係がありません。仕事上の仲間に気軽に質問するにはスピリチュアル過ぎる内容なので、その週末にカトリック教会にいる友人に電話で聞いてみました。すると名前を複数回連呼するのはその名前を忘れるなという趣旨で理解すべきだろうということ。加えて、記憶にとどめておけという意味からして、何らかの霊的な存在、例えば天使もしくは悪魔のようなものではないだろうかということでした。
●悪魔という言葉を宗教関係者から聞くと、私も内心穏やかではありません。また忘れてはならないという言葉の背景を考えると、私自身に何かが憑依しているような気さえしてきます・・・。それ以上あれこれ考え始めるとどうにも落ち着かない気分になるのが嫌だった私は、以来このことを考えるのを封印していました。
●しかし先週仕事の都合で突然コルドバへ出張することになりました。スペインへ行くときはせいぜいマドリードだった私からすると、少々運命的な予感を感じさせる出来事です。昨年聞いたアンダルシアという言葉を私は再び思い出したのは、そのような事情からです・・・。自分の予定表に次々に追加されるコルドバの地名と人物名には今のところ、パブロという名前は出てきていませんが、真夏の二週間に一体何が起きるのか今から不安でなりません。
●週末散歩しながらあれこれ考えました。この数年間に自分の身に起こった出来事、離婚そして娘との別れ。父の死。アルコールと断酒。仕事上のトラブル、そんな出来事の全てを、アンダルシアのパブロと名乗る男性がそばにいて、じっと凝視していたのかもしれない・・・。そんな根拠のない想念が頭を駆け巡りました。天使なのか悪魔なのかわからない何者かとのコンタクトを思い描きながら、私は月末の出張の準備を、今も淡々としております・・・。

一切を所有せず(浦崎)

●断捨離やミニマリストといった言葉がかなり普及している。実際生活をしている人間として非常に納得ができる部分が多々あるから、春先からかなりの時間をかけて、身の回り品からクルマ・不動産などに至るまで一斉に資産の処分に動いている。
●クルマは現在居住している泉岳寺付近なら、常時使用できるカーシェアの車両が結構な台数あり、高額な駐車場代や自動車税から解放されることになった。北米の中西部に住んでいるわけでもないのに車を所有しなければいけないと思い込んでいたのかもしれない。
●身の回り品で厄介だったのは書籍類である。一度読んだだけでいつかまたひも解くこともあるだろうということで所有し続けた結果、春先までで3000冊以上の点数の本が本棚にあった。このうちもう一度読もうと思うものは業者に頼んで電子化し、90パーセント以上は売却した。昔の文学者や大学教授にあたりが生きていれば本を売るとは何事かと怒られるところだが、一般書籍であれ専門の希少本であれ、世の中に流通していろいろな人に読んでもらう方がいいと今は思う・・・。
●普通の人ならその辺までだろう。しかし私の場合続きがある。若いころから預かっている美術作品が家一棟、倉庫一棟分あったのだ・・・。未練は多少残るが4トントラックに積載できるだけ積み、茶碗など数点のみ残して全て処分した。収蔵・保管をしていた不動産は固定資産税まで負担して郊外に所有していたものだが、これも現在空き家となり、処分手続きの途中である。
●首都高の湾岸線を何往復もした。ハンドルを握りながらふと思い出したのはサルトルのことである。ノーベル文学賞を辞退し、賞金も受け取らず、莫大な印税も難民に寄付してしまうサルトルは終生小さな部屋に住み、遺産も殆どなかったということだ。蓄財や所有・相続などに血道をあげる生臭さはそこにはない。生活にかかるもの以外一切を所有しない清々しさは、仏教国の人間だけでなく、はるか遠いパリや世界にもあるということだ。後世に残すべきものは資産などではない。

宮澤賢治のこと(浦崎)

●年末にバタバタといろんなことをした。仕事に余裕があったせいもあるが、いろんな立場で孤軍奮闘している人たちに多少尽力した。ただ私は私で闘うべき別の畑もあるから、クリスマスと年末は、酒盛りの合間を縫って書き溜めた文章の仕上げでもしてみたいところだ。
●宮澤賢治のことをよく考える。人生の時々に好きな作家はいたが、私の場合、この人物のことだけが頭を去らなかった。そもそも童話作家というのは儲からないものだが、この人も実家が途中までそこそこの財産家だったという以外、富には無縁な人物だった。日々は誰かのために生き、夜は遅くまで童話を書く。人生が短命に終わるよりも、自他ともにある種の使命感を優先する生き方だ。こういう生き方を、現代ならいろいろ問題視するだろうが、私は好きだ。
●知人で美術史が専門の大学教授によれば、ルネサンス期のアーティストはある種のにぎにぎしい欲望を抱いたが故に、歴史に足跡を残しえたということだ。それも一理あるだろう。しかし逆説的に言えば、そのにぎにぎしさだけでも作品はできない。創作という作業の特質上、常に自分や作品との対話は、長距離走者のように孤独だからだ。世間的にいうと、多少狂気じみていて、恐怖の対象にもなる。
●しかしそこそこ普通の人生も生きてきて、私はやはりこういう狂気が、理屈抜きに好きだ。純粋さには疑いがなく、作品はいい。文章や舞台なら言葉が生きているし、音楽や造形なら音やモノに力がある。現実世界は常に不完全で、人は常に未完に終わる物語に妥協と忍従を強いられるものだが、こういう人々は常に完全性を追求する。それが何ともいい。
●私の反省は、人生の前半戦が常識的過ぎたことだ。脳みその半分は、デカルト張りの計算高い合理主義が占有しているけれど、常に違う答えを出す別の思考回路もある。しかし後半戦は左右を反転させて、宮澤賢治のように、完全性を求める時間があってもいいだろう・・・。クリスマスだというのに、またそんな自戒じみたことを考えてしまうのは、妙に底冷えのするこの寒さのせいもあるのかもしれない。寒さというのは、わたしの場合、東北の地と宮澤賢治の作品の記憶に通じているからだ。

画商として野生社会を歩く(浦崎)

●ここ半年ばかり、ふとしたことがきっかけで、コンテンポラリー・アートも手掛けてみることになりました。手がけるといってもどちらかといえば鑑賞家なので、あえていうと画商という立場になってしまうのかもしれません。作品の置き場に困っているアーティストの作品を無料で預かるという、不思議な篤志家として長い間生きてきてしまったので、単に、そこに眠っている作品たちを復活させることだけなのですが・・・。
●さて、いざ初めてみると、いろいろと面白いことがわかってきました。こと美術の世界に関していうと、言語はほぼ英語で、SNSはインスタグラム一色です。仕方がないので下手な英語で、ホームページ等はすべて英語で作り直して、写真で撮影した大量の作品をインスタグラムに登録する作業をいたしました。日本のアーティストたちが意外に英語ベタなので、多少の役には立ったようです。
●しかし更に興味深いのは、インスタグラムの美術関係のタグで起きているコミュニケーション方法です。良い作品を見つけると、ニューヨークやパリの画廊にいる人々が、よいと言ってくる。また、よいといってもらったアーティストは狂喜して画商をフォローする。まあそんな図式なのですが、そこに言語の障壁となるような難しい英語はなく、極めてシンプルな会話だけが流通します。魅力的な作品があればこその話ですが、こういうコミュニケーションの取り方は、レヴィストロースのいう言語を超えた野生社会を思わせるものがあって、何やらすっかり興奮してしまいました。
●とはいえ、この言語や国家の障壁がない美術の世界には、反面恐ろしさもあります。例えばコンテンポラリー・アートという分類のタグには、600万人も登録をしているので、よほどのことでも起きなければデータは塵芥になります。この領域で商売を繁盛させようなどという意識は毛頭ありませんが、今後もこのような野生社会で、随時対応をしていこうとするなら、結構な労力と時間が必要になりそうなので、武者震いしているところです・・・。
●気ままな人生の成り行きで、自然に始まってしまったこの仕事ですが、儲からないという点さえ目をつぶれば、面白さは何百倍もあって、なかなかよい感じです。風が不思議な方向から吹いてくる。難しいことは考えずに、気持ちの良い空気なら、追い風にのってすいすい自転車を走らせればいい・・・。どうやら年末ですっかり寒い東京ですが、 そんなことを考えながら街を長い時間歩いて、家に帰りました。

カナダからの便り(浦崎)

●トランプが大統領になって本当にカナダに移民申請した友人がいる。東北大震災の時、自分のところへ来いと言ってくれた女性だ。ずっと昔つきあったこともある。日本人の男性としては昔のことがあるから、何だか気恥ずかしい部分があってもじもじしてしまうのだが、テレビ映像で日本の津波のことを知った彼女は、迷うことなく私に連絡をくれた。山手線が止まってしまって、夜の中原街道を一人玉川方面に歩いていた時のことだ。
●ある種の社会の歪みに対して、彼女は敏感だ。故郷オーストラリアの新首相に何か直感的な違和感を感じたのか、早速デモに参加。アメリカではサンダースの支持者で、クリントンが指名獲得をしてからはおとなしくしていたが、今回の件で何かがプツンと切れたのだろう。いつも私のアンテナの10倍以上感度の高い感受性を持っていたから、新大統領は許容範囲を超えていたのだろうと思う。
●人間同士の関係は不思議に大きくて深い。助けの手を差し出す彼女の姿を見て私はそのことを学んだ。助けが必要なとき、人はなかなか他人に援助を頼めないものだ。そういうことを彼女はよく知っているから、あの時連絡をくれたのだろうと私は思う。そこには利害も複雑な事情もなく、一人のキリスト教者の女性がいたと思う。既存宗教のことを薄っぺらく批判していた私には、その点何かが欠落していると思った。
●同じように今回の大統領選の結果が出たとき、私にも大きな違和感があった。彼女にはその10倍の不快感があったはずだから、彼女の立場をもっと斟酌できたはずだ・・・。屁理屈や複雑な事情を考えるのをやめて、「東京にきたらどうか。」と言った。諸方面にどのように説明すればいいかは、この際どちらでもよかった。そのように行動することが正しいと思ったのだ・・・。
●昨日「本当にまずくなったらそうするよ。」という返信が来た。まだアメリカを見捨てたわけでもなくて、捲土重来を目指しているという。「また地震が起きたら、カナダへいっていいか。」と書いたら、勿論と返事がきた。
●人種や宗教という問題を新大統領は簡単に述べすぎた。アメリカ、オーストラリア、東欧、グルジアなど様々な血脈を受け継いでいて、敬虔な東方正教会の信者だった母親のもとに生まれた彼女からすると、トランプはスターリンやヒトラーに見えるはずだ・・・。歴史を数千年単位でみれば、イスラム教徒もメキシコ人もよき隣人だ。ローマ帝国の前期の興隆は、市民権を得た移民たちによるところが大きい。そう考えれば、アメリカは病的に小さくなった・・・。彼女が横にいたら、きっとそんなことを述べているだろうと思った。

26年前の手紙の返信が届く(浦崎)

●香港の中国返還前後のころよく香港に出かけていました。ずっと昔でよく考えてみると二十年以上前のことです。その頃香港大学出身で学校の先生だった友人に頼まれて、現地の小学生五人と英語で文通することになりました。香港は小学校から英語を教えているので、十歳ぐらいの子供たちが結構うまい英語で手紙を送ってくるので非常に驚いた記憶があります。ただ一年ほどたつと私も忙しくなってきたのと、香港側もかなりの緊張状態になったので、自然にやり取りが少なくなり、そのままとなりました。以来二十年以上の歳月が流れたということになります。
●その五人のうちの一人の女の子から先週facebookのメッセンジャーで突然連絡がきました。インターネットの普及で私の名前を見つけやすくなったということです。いやはやすごい時代になりました・・・。小学生だと思っていた女子はその後、英語の先生になり、今や三児の母だということです。来年の夏に家族で日本に来るということなので、一体どこから何を話そうかと少々興奮してしまった次第です。
●しかし当時の友人は一体どこに行ったのだろうかという疑問は残りました。天安門事件など数々の事件で、バンクーバーやオーストラリアに行った人々も沢山いて、何やら気になってきます・・・。現在の学生たちは、私の友人たちの子供の世代です。親は中国共産党に近い”本土派”と独立派に二分され、子供たちは独立派が多い模様。中国がG2になって、実利を追うなら共産党、未来の民主制を求めるなら独立派という複雑な構造になっている香港は、私が知っている時代よりももっと難しい時代になったのかもしれません。

非合理的に生きる(浦崎)

●中学校の同窓会に呼んでもらった。結果34年ぶりに静岡県の三島市を訪れることになった。転勤族の息子だったから高校を卒業してから東京の大学に入ったところで、縁が切れてしまった。以来月日がたった。
●会の始まる二時間ほど前にやってきて、まちを歩いてみた。以前住んでいた建物を探してみたら既に取り壊されて空き地になっていた。三十年前そこは新築だったはずだが、寿命を迎えたということなのだろう。すっかり浦島太郎だけれど、軍艦島を眺めた時と同じような気持ちになった。
●中学校のある銀杏並木をあるき、昔よく立ち読みをしていた古書店付近を通過していているうちに、ふと考えた。なぜ自分はこれほど合理的なものに抵抗感を覚えてきたのかと・・・。デカルトのいう合理性は現代社会に当て嵌めれば、利に叶うことだけに専念すべきということに繋がるが、学生時代から何やらずっと心地がよくない。理屈を越えていて生理的なものだ。
●経済人として20年過ごしてきたが、この不快感が未だに去らない。そういう意味では中学生の頃から変わらない。気質のようなものだろう。
●以前北一輝をまじめに研究してみたとき、天皇は家族のようなものだと書いてある部分にふと目が止まったことがある。やはり理屈や合理性を越えた考え方だ。北の出身地佐渡が歴史上流罪の地として天皇家を受け入れてきたことと無縁ではないだろう。戦後の歴史家たちが嫌って、荒縄にくくって川に流してしまった非合理性がそこにある。しかし何故かこういう土着性の強い考え方が私は好きだ・・・。
●同窓会でまだ自分のことを覚えていてくれた人たちにあった。30年後の昔話はいい。穴があったら入りたいと思うような恥ずかしい話も思い出ばなしになる。自分と同じで、みな外見は変わったが本質的な部分は変わらず存在していて、面白い。酒のせいもあるがきっと饒舌に余計なことも沢山話していたことだろう。しかしそんな愚かさもお互い様という安心感がある。合理性はないけれども、非常に心地いい。
●半面、34年も前の自分とまったく異なる現在の姿をどのように説明したらよいのか、正直わからないという不安があった。30年間という歳月は上下左右の運動を繰り返しながら、波のようにうねってきた時間だからだ。サルトルのいう偶然・不条理としかいいようがない。合理的で疑いようのない一次関数で表現することは不可能だ。はてさて困ったと思う。ひょっとしてこの不条理感がデカルト嫌いにつながっているのかもしれないと思う。
●三島からの帰り道、この不条理感を、若かりし岡本太郎が自問自答して、意味を問うより、瞬間の・瞬間のエネルギーの爆発として、自分を方向付けるべきだと自認した件を思い出した。その通りだ。都度目に入る、一杯の酒に、富士山の雪景色。そういうもののために人は瞬間の連続を生きる・・・。裾野から御殿場、箱根と一般道を使い、東京へと帰る道々、長い時間をかけて車を動かし、いまだにそんなことを考え続けている私は、昔も今もずっと青臭い。これも困ったものだ・・・。病気に近い。

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少年の名前を忘れなかった田中角栄(永野)

●意外かもしれませんが、私と故田中角栄さんとは二度接点がありました。私がまだ小学生のときのことです。通っていた学校にある日角栄さんがやってきました。名目は良く覚えていませんが、角栄さんに質問したい人は手を上げてと校長先生がいった瞬間、はいっと手を上げた自分のことだけはよく覚えています。
●自分がそのときいったい何を質問したのか、今となってはまったく覚えていません。ただ自分の名前だけははっきりとまず名乗りなさいと先生に言われたので、”永野です”とかなり大きな声で話したのだけは覚えています。在る冬の肌寒い日の午前のことでした。角栄さんはその後一緒に給食を食べたあと、黒塗りの車に乗って去っていきました・・・。
●それから数ヶ月ほどたったころです。大学4年生だった叔父に連れられて私は再び角栄さんの集まりに参加することになりました。女手一つで私を育てていた母は大抵家にはいなかったので、放課後ともなると、まだちょっと頼りなく見えた叔父さんと行動をともにするようになっていたのです。叔父さんは、普段学校にも行かず友人と飲み歩いているくせに、政治や社会のことに深く興味を持っていました。特に角栄さんの大ファンで”いずれ俺も首相になるぞ~”などとくだをまいておりました。
●その日叔父が連れて行ってくれのは、今から思えば学生向けの政治集会だったのではないかと思います。内容は少年の私には難しすぎるものばかりでした。昼にポテトを食べ過ぎていた私は、熱心な叔父が最前列に引っ張り込んだことをうらみつつ、角栄さんの演壇の前で居眠りをしてしまいました。子供のころのことなので、きっとよだれでも垂らして、気を失っていたのだろうと思いますが・・・。
●集会が終わりました。叔父にたたき起こされて出口へ向かうと、出口から外へでる廊下に秘書さんたちが並んで角栄さんの名詞を配っていました。そして最後尾に角栄さんがいて一人ひとりに握手してくれるのです。叔父は角栄さんと握手をすると顔を真っ赤にして、興奮しました・・・などといっていたような気がします。
●私は居眠りをしていたばつのわるさもあって、さりげなく通り過ぎようとしたのですが、角栄さんが声をかけてきました。”いかんじゃないか居眠りをしたら・・・。いやいや冗談。永野君だったね、小学校でちゃんと勉強しろよ”というのです。居眠りをしていたことに気づいていたのはまあわかるにしても、数ヶ月前に小学校で質問を受け付けた私の名前をなぜ角栄さんが覚えていたのか、私にはわかりません。ひょっとすると、奇天烈な質問でもしたのかもしれませんが、それにしても有名な政治家が自分の名前を覚えてくれていたのが何よりもうれしく、その日の晩はよく眠れなかったことをいまだに覚えています。
●ロッキード事件はそれから後におきました。叔父は一転して腐敗政治を弾圧する青年活動家のようなコメントをするようになりました。しかし私は違いました。何かと集団で埋没してしまう傾向があった私の名前を覚えてくれていた角栄さんは、私の中ではロッキード事件ぐらいではゆらがない存在でした・・・。今冷静に考えれば、当時の叔父さんと同様の見解もあるのですが、あの類まれな角栄さんの記憶力を見た私の中では、そうはいってもまだまだ角栄さんは偉大な人物の印象が強く残っているのです。何かと悪者の代名詞にされてしまう角栄さんですが、会った人の名前も何も全部忘れてしまう現代政治家の誰よりも優れた人間観察眼と人間力を持っていたと今も信じております。

天空へ届け私のカミングアウト(木羅)

●田舎が彦根なので、本当なら今日あたり琵琶湖でも眺めているところですが、いろいろと事情もあって今年は自由が丘の自分の部屋でひとりせっせと原稿を書いております。帰りたくない理由はいくつかありますが、最大の問題は田舎で母上がセットアップしていると思われるお見合いのことです。
●別に結婚したくないわけではありませんが、私はどうもあのお見合いというやつが苦手なのです。殆ど見ず知らずの方と突然身の上話をしなければならないからです。それほど人様に自慢できることもなく、あれこれ説明をしている自分も嫌ですし、あげくの果てに間に入っているやり手の奥様から”どうも先方様は、恋人感覚わかないとおっしゃってるらしいですよ”などとメッセージをもらったりするわけです。突然あって恋人感覚もくそもあるかと、その慇懃無礼な返答に腹を立てている自分も何だかかっこ悪い・・・。要するに私はそういう堅苦しい場設定が苦手なのです。
●しかし次から次へと、ドラエモンのポケット、或いは打ち出の小槌のように、嫁さん候補を送り出してくる、彦根の母上というのも、執念の鬼です。たっぷりと画像が添付されたメールを毎度もらうたびに、同様に自分の写真が日本のあっちこっちに送付されている様を思い浮かべ、恐怖の日々でなのであります。日本全国でもてない三十代の筆頭のように扱われて、ひょっとしてSNSあたりで笑いものになっているのでは・・・、などと恐れおののいているのであります。
●軽口はさておき・・・。本当のところ、結婚したくない理由が私にはひとつだけあります。随分昔に別れた彼女のことです。証券会社に勤めていた彼女と私はある飲み会の席で知り合いました。決して派手でなく、どちらかといえば地味で堅実な印象の彼女の姿に好印象を持った私は、ある年の暑い夏の日から付き合うようになりました。私は平日はがむしゃらに仕事をする新入社員。週末は彼女の住む横浜まで毎度車を走らせて、日曜日の山下公園を散歩するという繰り返しでした。特別意識はしていませんでしたが、自然にゆけば結婚ということになるのだという意識が私の中にはありました。
●しかし悩める二十代だった私は、ある仕事で大きなミスを犯したのがきっかけでひどく落ち込んでしまいました。あらゆる世の中のことが嫌になった私は、旅に出ました。彼女にあれこれ説明するのも嫌だったので、ただ旅に出ると一言言い残して・・・。三ヶ月日本を旅してから、その後上海に渡り、陸路チベットを経由してネパール、インド、そして欧州という具合で、結局ポルトガルにいたるまでに一年ほどの時間をかけました。その間一切彼女には連絡をせず、結局日本に帰ってからも、電話一本しませんでした。既に消滅してしまったものだと半ばあきらめ、躊躇する自分がいたからです。
●さらに三年がたちました。ある日、以前飲み会に一緒に参加していた友人と丸の内でバッタリ遭遇したときのことです。自然話題は彼女のことになりました。友人がいうには、彼女は若年性のガンであることが一年ほど前にわかりわずか半年ほどで亡くなったということでした。なくなる数日前に彼女に会った友人は、”木羅くんのことは今では良い思い出だったわ”という言葉を聞いたとのこと・・・。
●衝撃でした。結婚を夢見ていた彼女を見捨てて、自分の傷だけを癒そうとしていた自分が、本当に嫌になってしまいました。以来、すべて忘れてしまおうと仕事に打ち込む日々を送りましたが、どんなに時間を使っても彼女のことばかり思い出すようになりました。それは女性との出会いについても同様です。誰と出会っても、彼女の印象が重なってなにやら心がそこにないような状態だったのだろうと思います。彼女にその苦しみをすべてさらけ出して、自分の至らなさをわびたいと思いつつ、お墓のある横浜にはどうしても出向くことができませんでした・・・。
●そしてまた新年を迎えました。私の中のわだかまりはなお消えていません。一人部屋で黙々と原稿を書くうちに、私はようやくお墓に参ろうと思うにいたりました。そしてこれまでの時間、自分がどこで何をしてきたのか、またこれからどうしていこうと考えているのか、そのすべてを話し、彼女の了解を得たいと思います。既に天空で私を眺めているに違いない彼女に、私が話そうとしていることはすべて自己満足なのかもしれません。が、私の長い長い停滞の時間が、このまま永久に続くことに、私はとても耐え切れそうにないのです・・・。年初の固い決意を胸に、明日横浜に一人出向くことにいたしました・・・。

東宮大悟の初夢ものがたり(東宮)

●正月に実家に帰ってまいりました。神奈川県の逗子です。実家といっても両親が引退後に隠棲している場所なのでこれといった愛着があるわけではありません。兄も姉も立派に独り立ちして家庭を持っているので、問題児だけが実家に里帰りする、そのようなところです。
●しかしこの逗子、なかなか風光明媚な場所です。初日の出を拝んだりするには最適な場所ではないでしょうか。新しい一年の始まりにおいて、神々しい太陽の光を浴びて何かインスピレーションを与えられる気がしてきます。
●幸せ気分一杯で昨晩は布団に入りました。恒例の初夢を期待してのことです。中学生の頃から初夢を日記にメモしてきて、現在まで15年程度継続してきているのですが、さて今年は一体どんな未来を予見してくれるのかわくわくしながら枕に頭をのせました。
●今年の夢に登場したのは、一人の老人です。まったく心当たりのない方です。きちんと白髪を七三わけにして、ひげも処理されています。白いカーディガンに茶色のスラックスをはいたその老人は、私に向かって何かを語りかけようとしています。エミリー・ブロンテの嵐が丘に登場する荒野を連想させる場所に一人立つ老人の声は非常に微かで、私にはよく聞き取れません。仕方がないので老人に近づいていくと、老人は私の耳に口を寄せ。小何度か同じ言葉を繰り返しました。
●”उत्तर के बड़े त्रिकोण का पत्थर कदम, और अंतर्निहित शास्त्रों निहारना”。このヒンディー語を直訳すると”ギャンツェ北方の大きな三角の石を動かし、その下にある経典を見ろ”という意味になります。外大の専修でこの言語をなんとなく選択した私だからなのかどうかわかりませんが、非常に意味深です。初夢でこのようなことを聴かされて、また起床後も記憶が鮮明に残っていることは私の場合極めてまれです。あまりに気になるので、本日の午前中はそのギャンツェという名前の場所をあちこち調べることにしました。
●ギャンツェというのは、チベット西部の小さな町の名前でした。グーグル・マップで調べると、すべての地名が漢字で表記されており、詳細が不明です。老人のいう経典にたどり着くのは至難の業ではないかと現時点では考えざるを得ないようです。よくわからないことばかりなのですが、老人が一体何者で、ギャンツェの三角の石の下にあるという経典について、年明け6日あたりに早速諸方面の力を借りて調べてみることにしました。
●これまでもも不思議な初夢を見続けてきた私ですが、今年はまたさらに難しい謎解きが必要になりそうです。交通事故の予告、死後5年を経過した老婆からのメッセージなどなど、とても日常仕事をともにしている仲間には信じてもらえそうになり夢ばかりなのですが、つどその夢の意味の深さを知ることにつながっています。今回のメッセージについても、一年以上の時間を掛けて調べないといけないのではないか。そんな風に考えています。