リンゴとセザンヌ(浦崎)

●リンゴを眺めるとセザンヌのことを思わずにはいられない。パリにも印象派にも、どうにもなじめなかったこの作家が、実家のあるエクス・アン・プロバンスで、晩年まで只管描き続けたものだ。

●若い頃この作家を特に気にも留めなかった。ほかの作家と異なり、晩年までひきこもりのように暮らし、初めての個展を開いたのが50歳手前という何とも遅咲きのキャリアも手伝って、何かと激しい有為転変を期待する若造の私には迫ってくるものがなかったということだろう。

●それが最近、年齢のせいだろうか、ふと道端の草木に目がふと留まることが多くなった(さる日本の古書によればそういう気質的な変化は、武人なら死期が近いということになるらしいのだが・・・)。

●そんな私には、スーパーの店頭に並ぶリンゴが最近何故か輝いて見えるようになった。食べるわけでもないのに、買ってきて部屋の中に飾ってみる。まるで梶井基次郎の檸檬のような光景だが、私の中に印象が芽生えるのはセザンヌのことだ。

●静物ばかり描いたこの人物の目に入ったものが、このみずみずしい果物の何とも魅力的な姿かたちだったのだろうと思うと、食欲も忘れてしげしげとリンゴを眺めてしまう・・・。今頃になってセザンヌに共感を抱く自分にただ驚くばかりである。

戦艦武蔵が出るのなら徳川埋蔵金や如何に・・・(阿房)

●アメリカの偉い金持ちが最近発見した戦艦武蔵をTVで拝見しました。金持ちに先を越されるのは慣れているこの阿房ですが、こともあろうにアメリカ人に先に発見されるというのは、日本人としては何とも微妙な感じです。まあ、正直言って悔しいということです。
●こうなったら、日本人としては、最後のトレジャー、徳川埋蔵金に着手するしかないと腹を決めて、先般意味もなく5万円で購入した日本産金史を土日しっかり読みました。しかしこれは明治の山師の書いた金堀の話なので、方向が間違っていたと思い、今日はお台場を作った、江川太郎左衛門について少々調べてみることにいたしました。
●この男、韮山で反射炉を作った偉人として郷土ではたたえられているのですが(仲間の浦崎氏の母校が江川邸の隣に立っているという奇妙な偶然もあって知りました)、同じ名前の息子どのは、官軍が進軍してくるときくや、三島大社の宮司と一緒に、わざわざ三重県の桑名までいって恭順の意を示した、という、江戸や東北列藩同盟の子孫たちからすると、ちょっとした裏切りものなのであります。
●しかし親父の太郎左衛門の方は、よくよく見ると、お台場を作れと指示されたのも、反射炉をやってみろと言われたのも、実は勘定奉行だった小栗上野介殿からでありました。小栗は官軍に何の情状酌量もなく斬首された一方、江川の息子が簡単に官軍に寝返っている事情を見ると、阿房の中のホームズ好きの血が騒いできます。
●何の根拠もない阿呆の阿房らしい推理ですが、官軍に簡単に寝返ったのも、ひょっとすると小栗からの指示だったんではないでしょうか・・・。なんといっても、伊豆は昭和まで金山として現役であったくらいなので、徳川埋蔵金というなら最も疑われてもいいところ。早々に寝返って、領地を安堵してもらったのをいいことに、金山の廃坑あたりに穴でも掘って隠したんじゃあないか、阿房はそう直感が働いたのであります。
●考えてみれば、伊豆(静岡)や甲州(山梨)というのは、武田の時代から金が出るところで、江戸時代初期まで金の世界を牛耳った大久保長安という怪しい人物も輩出しております。徳川の金づる発祥の地である伊豆に300年以上領地を安堵されている江川太郎左衛門をまず疑ってみるのも、面白いんじゃあないでしょうか。
●いやあ燃えてきました。靴をする減らしてでも猪突猛進をするのが阿房のよいところ。自画自賛を責められても、今回ばかりはアメリカ人の先を行こうと、年末は更に徳川埋蔵金調査を行いたいと思います。

アレック・ボールドウィンにすっかりやられる(阿房)

●アメリカでアレック・ボールドウィンの演じるトランプが流行っているらしい。知人のアメリカ人が笑い転げているので、この阿房は絶対笑わないぞと固く誓いつつ、見始めました。話が前後しますが、日本のお笑いが面白くないといって、どこに連れてっても絶対に笑わないこのアメリカ人への対抗意識ってとこでしょう。
●しかし、この阿房、やっぱり駄目でした。面白いものに目がないのですが、世間の重苦しい雰囲気に飲まれて、きっと白けると思っていたのに・・・。やっぱり我慢できませんでした。それどころか、あらゆるツボの違う理系アメリカ人と一緒になって腹を抱えて笑っているので、いよいよこいつら気が狂ったかと思った他のメンバーまで巻き込んでしまう羽目に・・・。
●う~ん、しかし笑うというのはいいですな~。爆弾男のような顔をしたアメリカ人、座禅で瞑想しかしないと思っていたフランス人などなど、いつもは腹のわからん奴らだと警戒しておったのですが、今やすっかり友達です。これからアレックに感謝しつつ、みんなで昼間っからのみに行こうと思い

続きを読む アレック・ボールドウィンにすっかりやられる(阿房)

うまいもの(阿房)

●うまいものは何かってことを考えてみました。隣で幸せそうに愛妻弁当を食っているカメラマンA君がいて、阿房がコンビニで買ってきたメロンパンを食っているからなのですが、うまいうまいというA君の言葉が何とも耳に響いて、この阿房にも何かうまいものをくれ~と天に祈ってしまったからであります。
●神様ならこういうでしょう。「ほう阿房君、それならどんなものを食いたいんだね・・・。」と。質問されると答えに困るもので、いろいろ考えてみます。満漢全席、サーロイン、黒豚トンカツ、あんこう鍋・・・。う~ん、難しい。
●理由は、愛妻アンコウ鍋ならいいけど、悪妻アンコウ鍋はいやだなと思うから・・・。 我ながらワガママだと思う。ちなみに即座に悪妻を思い浮かべちゃうのは、今朝もうちの奥さんに叱られたから。飲み歩いてる自分もわるいけど、朝から正座して「すいません」、なんて言わされると、正直こころも折れる・・・。
●A君にそんな雑談を持ちかけると、「でも阿房さんだって、昔はラブラブだったんじゃないんですか。」との弁。まあそうだ。確かにそういうこともあった。考えてみると、結婚する前がよかったなあ、うん、それなら付き合う前がよかった。いやいや、最初に茗荷谷の駅前でマジソン・スクエア・ガーデンの鞄を持っている彼女に出会った時が一番よかった・・・。「何すか、その鞄。ボク知らないっす。いつの話スカ。」。A君はいつも乾いていていい。
●最初はいつもいい。奥さんもそうだし、生まれてきた子供たちも、まだ不良ではなかったし・・・。そうだあの時代に帰ったつもりになって、アンコウ鍋食うのが一番だ・・・。そう思いついた阿房は、無理やり水戸に行く予定を入れてしまいました・・・。
●ただたぶん、奥さんも子供たちもきっとこないんだろうなあと、また考え始めちゃうと、きりがありません。ふと思い浮かぶのが、飲み屋のママとかスポーツジムの美人インストラクターのことばかり。やっぱり結婚したばかりのA君にはかなわないし、所詮オヤジのロマンチシズムかと思うと、年末の阿房の”うまいもの”の夢は今年も実現せずに終わりそうです。

ロートレックの中の主人公ラ・グリュの人生(グオルク)

●ロートレックの作品の中に頻繁に登場するモデルに、ラ・グリュ(La Goulue)がいる。日本語に訳すと”大食漢”或いは”大食らい”ということになるだろう。ムーラン・ルージュの踊り子だが、単に美しいという対象ではなくて、ロートレックの好む、どこか自然な滑稽さにあふれた人物であったようだ。
●この女性の存在を強烈に印象付けられる理由は、オルセー美術館の中にある。ロートレックに頼んで描いてもらった作品が二枚展示されているからだ。晩年踊り子として人気がなくなった彼女は、必要に迫られてこの絵を二束三文で売ってしまう。1900年前後のことだ。当座のお金がなくなって・・・、という理由がラ・グリュらしいが、きっと何か食べたいものがあったのだろう。理由はともかく、その後多く人の手を経てオルセーにたどり着く。長い旅の途中で、絵を裂かれてしまうという不幸な出来事もあったらしいが、今もその傷跡を残しながらオルセーの中に展示されていて、非常に興味深い。売却せずに手元において、子孫に資産として遺せば、彼らは今頃億万長者にでもなっていただろうに、とも思うのだが、そこはラ・グリュのやることだから、人間臭く、目の前の食器に山と盛られた美味に負けたに違いない。
●しかし、このラ・グリュ、その後の人生も面白い。人気に陰りが出てからは、サーカスで働いてみたり、ムーラン・ルージュの店の前で、チョコレート・ボンボンの売り子をしたりと、なかなか処世術も彼女らしくて現実的だ。生きるということがとても難しい時代の中で、60歳前後まで現役で働き続け、死に際には神父に、自分のような大食漢は神に許されるのか、と真剣にたずねたという逸話もあるらしい。生活力のある、いきいきとしたラ・グリュの姿が思い浮かぶようで、ふとほくそ笑んでしまう。
●仕事がひと段落した私は2月に再びオルセーを訪れた。ちょうどギリシアに新政権が生まれたり、諷刺画の件でテロが発生していた頃のことだ。冬のパリはどこか物悲しかったが、オルセーの中のラ・グリュは相変らず、快活で人間らしさにあふれていた。既に品良く振舞うようになっているモンマルトの街並みを歩くよりは、往年のラ・グリュの姿を求めて、美術館の作品の中に彼女を見つけることが、私のエネルギーの源になっているような気がする。

うまれながらにしてシュートを打たない三代目の悩み(阿房)

●昨年とある関西ののオーナー企業と接する機会がありました。何でも初代社長は学校もろくろく出ず創業したのだそうですが、三代目は有名大学も出て何の心配もないように見えるのですが、これがまったく逆でした。三代目社長は兎に角危ない橋は一切渡らない。ヤバイ話はすべて部長や執行役員に任せるという具合なので、危なげないように見える反面何も新しい商売が立ち上がらない。そんな話を副社長から聞いていたので、社長とあったときの開口一番には驚きました。”いやいや阿房さん、当社には進取の気性というものがなくて、一向に新規事業が立ち上がらないんですよ”。いやはや何ともねじれた認識です。
●要するに既存事業はジリ貧だが、それなりに売上高は見えている。放置すればあと5年もすれば事業は枯渇するから新規事業でもうけなくてはいけない。だが部下は一向に新規事業の話を持ってこないというのが社長の言い分です。しかし副社長殿に言わせれば、新規事業にはおのずとリスクがあるが、リスクがありそうな新規事業を三代目社長殿は一向に認めようとしないということのようです。”100%リスクがない新規事業”というものをどうやら三代目社長殿は副社長以下に要求しているのです。
●よそ様の会社のことではありますが、決して笑って眺めているばかりではすまされません。わたくし阿房も中年フットサルのチームに所属しておりますが、いつも仲間に怒られるのは、自分でゴールを決めようとしていないことです。自分が蹴るよりも、最若手のイケメンでスポーツマンの仲間がシュート決めるほうがいいんではとか、キーパーと接触して怪我しちゃったら危ないしね・・・とか、ついつい考えてしまうのです。そんなことばかりしておりますので、チームは一向に勝てません。勝てないくせに、あれこれと他人のことだけはよくわかってしまうので、練習後の飲み会では大人気なく仲間のせいにしたりして・・・。まあ三代目社長殿の経営スタイルとたいして変わりありません・・・。
●そんなわたくし阿房の失敗談を、副社長殿にご紹介すると、副社長殿は直接三代目に意見するのは難しくても、フットサルで説教するのはできると思ったようです。早速社内にフットサルチームを作って社長ともども週末には他社のチームと試合をするようになったのです。先週そんな背景もあってこっそり試合の様子を見に行ってきました。しかし、三代目社長はすっかり監督気取りで、どっしりとベンチにすわり、メガホンで、あーせい、こーせい、と叫んでいます。副社長殿以下のみなさま、いい年なのに汗をびっしょりとかいて、顔は苦痛にゆがんでおりました・・・。生まれてこの方メガホンばかり握る癖をもってしまった三代目には、一体誰が説諭できるのでしょうか。組織の問題というのは本当に難しいものですねえ・・・。

好色一代男はバイブルにして世ノ介はキリスト也(阿房)

●男女の関係なくして阿房の人生は語れませぬが、どうしても勝てない先達がおりまする。井原西鶴の好色一代男の主人公世ノ介でござりまする。生涯女3742人と関わると書かれたその一代記を読んではや二十年以上ですが、とてもとても3000人などという数には達しませぬ。仮にに現実社会に存在しておられたなら、大師匠と崇め奉るところでございましょう。
●数字の問題だけではございません。当時の上方から島原・江戸・水戸にいたるまでありとあらゆる遊里で遊び、その様子をつぶさに教えてくれるのでありまする。現代において同様の調査研究を行おうと思ったら、阿房などすぐに道半ばで断念してしまいそうでありますし、そもそも数週間で自己破産してしまいそうでありまする。
●この世ノ介殿、そんな現実世界を遥かに超えたモンスターであるのですが、何とも楽しく、また男性からみた理想の男性像なのでありまする。こんな人生を送ってみたいという阿房の少年時代の夢が、今この瞬間まで綿々とつながっておるのであります。この不肖・阿房久太郎の人生におけるバイブルがまさしくこの好色一代男であり、好色界における三位一体の統合的象徴が世ノ介殿ということになるのでありまする。
●しかし現代出版界ではこのような領域の読み物が中途半端で面白くありませぬ。グロテスクかつストレートな表現はありまするが、物語形式の読み物でありませぬから、途中で退屈して放屁してしまうぐらい。下手な後ろ暗さや真剣さなんか捨てちまって、本質から好色の楽しみを物語っていただける作品を待望してしまいます。好色でありながら、”エログロに堕ちない”という物語の難しさを、わたくし阿房久太郎自身も深く考えてしまうのであります。

阿房久太郎・二十年間の家庭生活(阿房)

●この阿房、実は結婚生活二十年をむかえました。女性問題、ギャンブル症候群、慢性的な仕事嫌いなどなど、女性受けしない条件の中、家庭はなぜかいつもぎりぎりで維持されております。当方の狼藉振りを漏れ聞く知人などはよほどできた奥さんなんでしょうねえといいますが、私からすれば毎度お小言を言われるお袋のような存在です。あるときなんぞは、息子や娘と一緒に正座させられたうえ、こんこんと二時間もお説教をされたことがありました。男の沽券云々なんてとても主張できるような状態ではありません。よくできた奥さんなんだとは思いますが、典型的な日本男性たちが、この環境で、私と同じように生きることは絶対に絶対に不可能でしょう。
●話は脱線しますが、いきつけのクラブのママと話をしていたときのこと。”阿房さんてホントいつも馬鹿だね~”と言われたことがありました。阿房は阿呆ですから否定はしませんが(いつものことですが)、ママの言うには、どうやら女性がわかってないということのようです。いくつになっても女っていうのは恋愛感覚が大事なのよというのがママの立場。それに対して阿房は日常生活の恐怖を思い浮かべつつ、”偉大なる子供の擁護者にして男性支配をもくろむ暴君ネロ”説を主張。ママによれば、阿呆は当方の妻にも恋愛感情はあるよってことらしいのだが、当方には一切身に覚えがないのであります。この阿房も二度や三度はともかく、チーママも含めて女性陣から一斉に阿呆呼ばわりされのが癪で、早速その週末に妻に質問をしてみることにしました。
●恋愛感覚なんていうの今もあるのというやや控えめな私の質問に対して、暴君ネロならぬ阿房妻は、”結婚する前はあったかもね~。でもすぐに別のに変わっちゃったよ”とのこと。これは結婚一年目にして浮気を繰り返したあげく、浮気相手が家に乗り込んでくるという世にもまれな事件が阿房家で発生したことと無関係ではないでしょう。恐怖を覚えた私は別の質問に切り替えて、今は存在するのでしょうか、と丁寧語で聞いていました。”う~ん、今は出来の悪い息子ほど愛情を感じるという世の中の言い方があるけど、あれに近いかな~”とのこと。阿房のみならず男性の立場からすると、とても恋愛感覚という言葉とは一致しない感覚なのですが、女性には女性の愛情の持ち方があるのかもしれません。これがママの言っている恋愛感覚なのでしょうか・・・。
●話をもとにもどしましょう。この阿房家の歴史の中に、独身の紳士諸兄、ご婦人の皆様が夢に見るようなものはありません。強欲と支配、隷属、妥協、屈服、反省、謝罪などなどキーワードは一般的には不幸に満ちております。しかしお互いに大したものでないと思っているせいか、相手に不愉快を覚えても、まああいつのやることだからしょうがない。今回は助けてやろう云々という、きわめて健全な五人組的互助関係が成り立っているのであります。ですから、一難生じたときには意外に強い組織力を発揮するという本当に類まれな家庭になっているのであります。妻の中には恋愛感情という純粋な感情があったのは確かでしょうが、二十数年をへてガラバゴス諸島のイグアナ並みに進化し、現在は救世軍的愛情となりえています。当の私阿房はといえば、当初思い浮かべた家庭生活からは程遠いものなのですが、いつの間にか出来上がったナスカの地上絵でも見るがごとく、どういう塩梅でできたのかよく理解できないにしても、航空写真でみるとなかなかのものかも、というものです。
●さて年末年始は皆様どのようにお過ごしになるのでありましょうか。阿房家は息子が自己責任留学中(親父の財布を当てにせずアルバイトして留学実現)で、サンフランシスコで皿洗いでもしており、娘は妙チクリンな音楽病にかかって、年末年始はぶっとうしでどこかでライブをやっているとか。かくいう阿房は妻の肩を揉んだりしつつ、寝静まった夜の温泉街にでも悪友たちと出撃することを夢見つつ、伊豆にでかける予定であります。順風とも円満とも言えず、奇妙なバランスで出来ている阿房家のあり方というものを、いずれ息子や娘が面白おかしく朝ドラの脚本にでも使ってくれることを期待して、21年目の家庭生活がまたはじまっちゃいそうな気配です。

ドリアン助川氏のバカボン言葉で考える老子と日本社会(永野)

●久々に遠隔地へ行く飛行機の中でドリアン助川氏の本(バカボンのパパと読む「老子」)を読みました。老子は私の好きな分野ですから、何となく本屋で手に取ってみたわけです。しかしこの本はなかなか面白いものでした。冒頭からバカボンのパパ語(・・・なのだ)という表現で、老子をわかりやすく表現しています。食べ物でも食べ合わせの妙として、イチゴと大福などの関係が評判をよんだことがありましたが、このバカボンのパパと老子という組み合わせは、そういうものの一つにあげられるのではないでしょうか。近年にない面白い本でした。
●さてこの食べ合わせの妙はともかくとして、老子を考える機会に再びめぐり会ったのは、偶然とも思えません。私も老子について久々に考えてみました。特に隣席でパソコンの画面を眺めている背広を着た中年紳士の憂鬱そうな表情とため息に、ふと触発された部分もあるかもしれません。この男性の陰鬱な空気の源泉は、きっと”あ~あ、また成績未達だな~コリャー”、或は”う~ん、そもそも俺もこんなしがない営業マンになり果てるために生きて生きたわけじゃあないんだよなー”というところにあるのでしょう。プレゼンテーションファイルにあるグラフを眺めて1時間くらいずっと沈黙して画面を眺めていたこの男性は、ええい面倒だと思ったのか、ビールとワインを立て続けに飲み干してぐっすりと眠り込んでしまいました。
●さて目的地はサンフランシスコでした。アナウンスが流れ始めた着陸1時間ほど前に目覚めたその中年紳士は、そそくさとパソコンを閉じるとスマートフォンの画面をしばらく眺めていました。背景写真には一枚の家族の写真で、かわいい娘の姿がありました。ふとその写真が目に入った私がかわいいですねというと、”末の娘なんですけどね、この年になってまさかっていう時期に突然授かったんですよ・・・”、という。その表情はとても朗らかなで幸せに満ちておりました・・・。
●着陸後レンタカーでサンノゼまでいくというその男性の車に乗って、私は途中にあるホテルへと向かいました。今の仕事にちょっぴりの不安と不満を感じつつ、家族との幸せに限りない満足感を抱いているその男性の姿は、去り際、大変よい空気に満ちておりました。一睡の夢で見たものはきっと家族との幸せな時間だったのではないかと思います。その喜びのさまは極めて自然でありました。老子のいう無為自然という言葉は、その男性の場合、仕事において顕著な違和感がある点でよろしからずということなのでしょうが、家族との幸福な時間という意味で合致するといえるかもしれません。他人事とはいえ、自分自身の無為自然を考えようと思った矢先に、ふと機内で目にした男性の姿は、ひょっとしたら私自身の姿ではないのか。私は宿泊先のホテルのミニバーから取り出したバドワイザーを飲みつつ、ふとそんなことを考えました。

横山やすしという人(木羅)

●友人から「やすし きよし漫才大全集」を借りたので昨晩久しぶりにやすきよ漫才を観ることになった。わたくしはもとよりこのこのコンビの漫才が好きだったので、単に懐かしいという感情以上に久々に漫才を観て笑うという楽しみを味わった。最近は漫才師も漫才そのものではなくバラエティー番組のタレントとして登場する機会が多いので、漫才らしい漫才を観るという機会が減少傾向にあるという事情もあるのかもしれないが、笑うということに何か新鮮な感覚もあった。
●この二人の漫才で、特別な笑いの源泉であると感じるのは、横山やすしという人のキャラクターである。わたくしのように関西人でもない人間であるからこそなのかもしれないが、何か大阪の人間の魅力を体現した人物像を感じる。喧嘩っ早くて、少々の事件も起こすが、どこか憎めない部分がある。このコンビの漫才には、そのやんちゃなやすしときよしが絡み合う面白さがあって楽しめる。この人は何をしでかすかわからないという或る意味での恐ろしさが、西川きよしのつっこみで意外性豊かな面白さにかわっているようにも思う。大阪芸人のDNAとでもいうべき部分でもある。
●来年で横山やすし氏が亡くなって10年になろうとしている。この間多くの漫才師が世に出たが、わたくしの中ではこのコンビの漫才は特別なポジションにあるから、決して記憶の中で混ざったりすることはない。常に存在し続ける笑いの原点である。まだ、DVDを2本見たところだが、残りの何本かも時間をかけてゆっくりと愉しみたいところである。