パリ証券取引所の大暴落とポール・ゴーギャン(巌野)

●何事も計算だというビジネスマンA氏がいます。たぶん利益やリスクのことをさして言った言葉でしょう。彼の言葉の定義からいえば、本当の意味での衝撃的な出来事は何も存在しないということになります。果たしてそれは正しいのでしょうか。
●このことを考えるとき、私の頭の中にはゴーギャンの面影が浮かびます。ただの日曜画家でしかなかったこの人物が突然プロに転向する気になったのは、1882年のパリ証券取引所の大暴落が契機になったといわれています。証券会社で高給を取っていたゴーギャンにとって、それは衝撃だったのでしょう。人生に生じる予測不可能な出来事を直視したゴーギャンは、生活する目途も立っていない画業に専心することになるのです。
●これは常識的に言えば、計算不能なリスクを取る決断だといえます。冒頭に登場したビジネスマンA氏などは決してこのような選択肢をとらないでしょう。しかし本当の意味での予測不能な現実に直面したとき、人は経済性や常識の垣根を越えて、本質に目覚めるのではないでしょうか。計算できる、或いは想定できる未来の枠の中だけで生きていくということは、概念として衝撃的なものではありません。また衝撃的な出来事をもって本質を知る機会になるのだとすれば、全ては計算できるという思い込みの中で生きている人は、反面不幸な存在であるのではとさえ、思ってしまうのです。
●仕事も捨て、家族とも別れ、タヒチで独り孤独に死んでいくゴーギャンの姿は、常識から言えば悲劇的です。しかし衝撃をもって、本質を知ったゴーギャンにとってそれは不可避な自分の運命のようなものだったのではないでしょうか。本質というのはえてして常識を踏み越えていくものです。踏み越えた先に何があるかを計算して、足を踏み出すようなものではありません。ただ自分の前に広がっていく一本の道を歩いていこうとする、とてつもないエネルギーを自覚するというだけのことではないでしょうか。
●この十年間に生じた大地震と経済危機は、私を含め多くの人にとって衝撃的な出来事だったのではないでしょうか。それはビジネスマンA氏のいう計算できる類のものでもなく、その意味を単純に咀嚼できるものでもありません。ただひたすらに打ちひしがれる時間と、受け入れなければならない痛みを感じる、長い長い時間の連続でした。しかし、種類は違っていても、やはり歩んでいくべき一本の道が、各人の前に広がっている、ということに、そろそろ気がつかねばならないではないかと思います・・・。東北にある親戚と友人たちの墓を最近訪ねて、私はふとそんなことを考えました。

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