バッヘルベルのカノンを聞き、中欧を旅する己の姿は既視感に包まれる体験でありました(阿房)

●私は大変な怠け者です。が、はぐれ雲よろしくその楽しみ方の研究という意味では結構な大家であります。テレビもなく、本や新聞もなく、ついでにあまりお金もないという状況で、ただただ歩くという旅でもやらせたら、それなりに日々面白おかしく生きるだろうなと思うのであります。年甲斐もなく、落ち着かない好奇心の赴くままに歩き、生きる、ただそれだけなのであります。
●そういう私は昔から、既視感すなわちデジャブ体験というものを楽しんできました。見知らぬ町にたどり着き、建物や付近の自然を眺めたりするときに、”ここには以前きたことがあるな、それは一体いつのことなのだろう”といった具合です。こういう自分への質問というのは普通なら瞬時に蒸発してしまうものなのでしょうが、暇な私は”それは今の人生なのかな、もっと過去の人生ではないか”といった具合に、考える幅を広げてより楽しい検討材料にしてしまう部分があります。多くの場合、それは以前見たことがある写真集の一こまであったり、映画で見た何がしかのシーンであるのですが、どう考えてみても自分の現在の人生では生じていないものもあります。
●例えばそれは中欧ヨーロッパのある地域を独り歩いているときのことです。突然そのなだらかな丘が果てしなく続く光景の中を、馬に乗り、楽師のような男とともに、同様とぼとぼと歩を進めている自分の姿を、思い浮かべたのです。記憶の中にある映像、自分でなくて自分であるものが、現在という時間の中で巧みにクロス・オーバーするのであります。間違いなく中世の欧州で、妙な格好をしている自分の姿です。
●そういう話を医者をやっている友人に話すと”お前それ白昼夢じゃないか、今度ちゃんとみてやるよ”といった具合に真面目に取り合ってはくれないのであります。医者として当然の反応なのですが、まあ私のような人間はそういう得たいの知れない体験というものもそれなりに尊重する部分がありますから、そういわれても心のどこかで信じ、かつ楽しんでしまうのであります。
●面白いもので、一旦その既視感に包まれますと、何かの拍子にその光景は再び夢に登場します。普段夢など見ない私ですが、その夢だけはここ十年何度も見るのであります。ついでにいうと、単にその光景が登場するというだけでなく、映像フィルムのようにゆっくりとそのシーンが続いていくのです。隣で同様馬に乗っている楽師のような男と馬を進めるうちに到着したある町で、私たちはオルガンの演奏を聴きます。バッヘルベルのカノンです。私は目を閉じてその曲に聴き入り、目を閉じる。そこで夢は終了です。ちょうど一年前のことです。最近仕事で忙殺されている私に、続きの光景はまだ現れていませんが、やはりどこかであの場所を基点に何かが通じているように思えるのです。
●考えてみれば、バッヘルベルのカノンとともに、楽師を引き連れて、あてどもなく旅する姿というのは、例えそれが幻想であったとしても、私自身の本来の姿であるのかもしれません。指をなめて頭上にかざし、さあ風はどこに向いているのかと確かめる。流れるように風の向く方向に馬を向け、行った先で仕事をする。時に立ち寄った町で心にしみる音楽を聴き、そのまま静かに寝入る。居心地よく、多少の悲しみと喜びがある。それは自分にとって理想的な形であるようにも思うのであります。この夢の続きと、それ以外の既視感については、後日日を改めてゆっくりお話したいと思います。

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