前世は池で自殺した”魂のツワモノ”が私である(阿房)

●知り合いの中小企業の経営者と雑談していたら、都内でちょっと評判の霊媒師の話になりました。じゃあ一緒に行ってみませんかということで話がまとまり、たまたまその話を聞いていた女性社員を含めてと3人で、その霊媒師の住んでいるマンションを訪れることにしました。先週の土曜日のことです。
●ドアを開けてそこに立っていたのは60代後半の老婦人。宗教の色はまったくなく、どこにも所属しない神がかりのようです。3人の中で私がトップバッターで、その女性の座る後ろに座り、”神の声”を聞くということになりました。形としてはその老婦人は神様の代理人、すなわち巫女的な存在であるようで、彼女の声は神の声であるという位置付けであるようです。
●”今日はなかなかのツワモノ”が来ているな”と憑依したような語り口で、老婦人は突然話し始めました。ツワモノという意味がよくわからない私がその意味を尋ねると、”それは魂のことだ”と神様の代理人がこたえました。どうやら話を詳しく聴いていると、前世の私は、まっすぐに人生を見つめようとした結果、自らの利益ばかりを目指す社会の中で犠牲となり、”池のある場所”で自殺の道を選んだということでした。
●そもそも宗教的には、自殺の選択は禁忌に属することであるはずですが、この老婦人には宗教色が皆無ですから、”魂のツワモノ”⇔”池で自殺した”、という二つの矛盾する要素が非常に肯定的に捉えられているようです。これは非常に面白いことで、オカルトや宗教関係者といろいろ話をしてきた私からすると非常に新鮮なものでした。
●少々脱線しますが、自殺という手段を否定的に捉えようとするのは、社会という巨大な組織や宗教組織を安定的に維持していくためには、政治においても宗教界においても不可欠だったからではないかと思います。そうでなければ明治以前の”殉死”や”切腹(harakiri)”棄老”など日本古来の美学思想が全てゴミ箱に入れられてしまいます。近現代の社会は、そういうものをひたすら悪しき旧習とだけ位置づけ、ひたすら遠ざけてきた感があります。しかしそもそも社会というものの矛盾する実態を考えれば、自殺という手段を完全に禁じることはできないものだと思います。死を選ぶことで尊厳を守るという選択肢を禁じてしまうことで、実は社会が荒廃に向かうという矛盾したサイクルに、現代社会は直面しているようにすら思えます。
●霊媒師の言葉を全て真に受ける必要もないのですが、どうやら自己の利益ばかりに執着する人々とは、正面でぶつからず、適当に付き合えというようなことが、私へのアドバイスであるようでした。”ダルマのようにコロンコロンと適当によけなさい、深く付き合う価値のない人たちですから・・・”というようなことです。何かしら思い当たるところのある言葉です。よくも悪くも、融通の利かない私のような人間には意味のある戒めなのかもしれません。帰りの車の中で、その日に霊媒師から指摘された内容について3人で雑談をしている中で、”阿房さんへの指摘は当たってますよ”などと他の2人からいわれるところからしても、まああたりなのかもしれません。面白い体験でした。

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